密の紡ぎ

第六話 「伝えるべき言葉」

 そよ風が吹いていた。空に昇るアーデルとエーデルが重なり、薄黄色の光が草原を優しく照らしている。歩き続けて棒のようになったユヅイヤの足に、固い地面は辛かった。だがそれでもヒギタが前へと進むから、止まらずにすんでいた。一度立ち止まってしまえばもう動けなくなる気がする。
 風の匂いが懐かしい。必死に生きている草花の香りを含んだ、冷たいながらもすがすがしい空気をめいっぱい吸い込みたくなる。乾いた砂とは違う生の気配を、体が渇望していた。自分がこれほどこの村に馴染んでいたことに、戻ってきて気づかされるとは滑稽だった。自分は異端者だと思い込んできたが、どうやらそうでもなかったようだ。
「あっ」
 不意に、ヒギタが立ち止まった。小さな手が前方へと伸ばされ、一点を指さす。その向こうで草原が途切れ、ぽつりと小屋が一軒だけ建っていた。今にも傾きそうなぼろぼろの家屋だが、その傍にある庭が手入れされているのは遠目にもわかる。月明かりの下、様々な花が穏やかな風に吹かれて揺れていた。
「母さん!」
 ユヅイヤの手を離して、ヒギタが走り出す。庭にある一本の木の向こう側に、人影があった。それが誰であるのか、ヒギタには明白であったようだ。長い草に足を取られそうになりながらも、転ぶことなく駆けていく。
 その気配に気づいたのか、木陰より一歩、人影がこちらへ近づいた。無造作に結われた黒髪の先が、布を幾重にも重ねた服が、そよ風になびく。華奢な女だ。ユヅイヤはその場に佇んだまま、二人の様子を眺めた。
 草原を抜けたヒギタがその勢いのまま飛びつくと、女はよろめきながらもどうにか受け止める。二人の喜びがユヅイヤにも伝わってくるようだった。言葉を交わしているのだろうか? 抱きついたまま背伸びをするヒギタの後ろ姿は、安心感のためか先ほどよりも幾分か子どもっぽい。
「よかった」
 小さく呟いて、ユヅイヤは破顔した。彼の内にもじわりと安堵が広がった。するとヒギタが突然振り返り、今度はユヅイヤの方を指し示す。女の視線もこちらへ向けられるのがわかった。次に何が起こるのか。彼は奥歯を強く噛むと、速まった鼓動を鎮めるために固く拳を握った。手のひらは熱いのに頭の中が冷えている。風の音が強く弱く、耳の奥で鳴った。
 かすかに、名を呼ばれた気がした。指さした姿勢のまま固まっているヒギタを残して、女がこちらへと駆け出した。痛む足を庇っているのか、ずいぶんとぎこちない走りだ。それでも普通の女が駆けるよりは速い。掻き分けられた下草の描く軌跡が、妙に目映かった。もう一歩も前へと踏み出せそうにないユヅイヤは、その場で立ち尽くしたまま黙す。
「ユヅイヤっ」
 草のさざめきに混じって、彼の名前を呼ぶ声がする。どんな表情をすればいいのかわからないユヅイヤは、ぼんやりと彼女の顔を見た。記憶にあるよりも少し年は重ねているが、それでも間違いない。オミコだ。
「この、馬鹿っ!」
 飛びつかん勢いで繰り出されたのは、小さな拳だった。思い切り胸板を叩かれた彼は、咳き込みながらもどうにか倒れるのだけは堪える。血が足りないせいか目眩がした。無理な体勢を取ったためか、右足も痛む。
「月が重なる夜は出かけないでって、何度も言ってたのに。本当に、本当にどうしようもないんだからっ! いつだってユヅイヤは、人の話を聞かないしっ」
 荒く息を吐きながら放たれた言葉は、懐かしいものだった。傷が治りきっていないうちに外へ出ようとした彼へ、彼女が何度も浴びせたものだ。思わず彼が口の端を上げると、彼女は眉根を寄せて嘆息した。だが次の瞬間、何の前触れもなく彼女はその場にしゃがみ込んだ。重なり合った布が草に埋もれる。
「オミコ――」
「本当の本当にユヅイヤなの? どうしよう。たくさん言葉を用意してたのに、こんなに経ってからだなんて思わなかったからすぐに出てこないわ。悔しい」
 伸ばしかけた手の行き先がなく、ユヅイヤは無言で自らの指先を見下ろした。泣いているのかもしれないが、涙混じりの声ではない。震えてもいない。そこが彼女らしかった。
「もう、どうしよう」
 なかなか立ち上がらない彼女に彼が狼狽えていると、硬直していたヒギタがゆっくり近づいてくるのが見えた。その小さな手のひらの感触を思い出して、ユヅイヤは瞳を細める。ヒギタの言葉が蘇る。ユヅイヤはやおら腰をかがめると、無理やり彼女の手を取って引き上げた。
 何から伝えるべきなのか、わからない。どの言葉でも足りない気がする。だが口を閉ざすことはもう止めた。諦めることができずに縋る悪あがきも、時には必要だと思えるくらいにはなった。失ったものを取り返す手段など、探せばいくらでもあるのかもしれない。いや、単になくしてしまったと思い込んでいるだけなのかもしれない。
 薄雲がかかったのか、月光が和らいだ。揺れる灰色の双眸を覗き込んで、彼は意を決して口を開いた。

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