密の紡ぎ

第三話 「オミコの息子」

 ヒギタの話から飛ばされてきた方向へと当たりをつけて、二人は再び砂煙の中へと身を投じた。しかしユヅイヤの頭の中には、別の悩みが生まれていた。疑念と混乱の渦に巻き込まれて、思考がうまく働かない。
 オミコに子どもなどいるはずがなかった。ここへと飛ばされる前は、彼はオミコと二人で暮らしていた。大体、十年前と言えばオミコはまだ子どもだ。いくらなんでも子どもが子どもを産めるはずもない。
 ではどういうことだろう。オミコという別人なのか? しかし同じ名前で、しかもララダの防具を編める女が、ギアンナ村に二人もいるとは考えにくかった。やはりそれはユヅイヤの知るオミコのことだろう。それでは一体どういうことなのか? まさかこちらと時の流れが違うとでもいうのだろうか?
 足取りが重くなるのを自覚しながら、ユヅイヤは黙々と歩いた。どうして必死に帰ろうとしているのか、そのことが脳裏をよぎる度に、胸に刺さった小さな棘がうずく。もしも本当にヒギタがオミコの息子であり、既に彼女が彼の知らない長い時を過ごしているのだとしたら、ユヅイヤに帰る場所などない。
「ユヅイヤさん?」
 不意にヒギタが立ち止まり、見上げてきた。風の唸り声の中でも、やや甲高い少年の声はよく通った。よれよれになったフードを目深にかぶったまま、ユヅイヤは目だけでヒギタを見る。深緑の布で頭をすっぽりと覆ったヒギタは、小さな額に皺を寄せていた。
「大丈夫? 顔色が悪いよ」
「……気にするな」
「気にするよー。病人を放っておくのは人として失格だって、母さんが言ってた」
「――そうか」
 ヒギタの口から「母さん」という単語を聞く度に、記憶の中のオミコが喋る。彼女はあらゆる意味で強い女だった。足の速い彼女は宝物狩りの時でも重宝される存在だった。森の中をあれほど速く駆け回ることができる人間を、ユヅイヤは他に知らない。彼女は強く、しなやかで、そして当たり前のように優しさを振りまく女だった。
「……お前の母さんは強いんだな」
「強いよ! でも、僕のせいで今は家にずっといるんだ」
「家に?」
「僕を助けたせいで、右足がうまく動かないんだ。だから家でずっとララダを編んでる。ララダを採ってくるのは僕の仕事なんだ」
 時折咳き込みながら、ヒギタはそう説明した。ヒギタが口にする「母さん」という女性は、ユヅイヤの知るオミコと何ら矛盾しない。知らない未来を聞かされている気分で、ユヅイヤは黙しがちだった。
 オミコにもう一度会って、伝えたいことがあった。謝りたいことがあった。だから帰りたかった。けれどももしかしたら、それさえ意味のないことなのかもしれない。頭の奥がずしりと重くなり、昔の記憶ばかりが蘇って現実との境が曖昧になった。
 一つ、この世界のことで思い出す話があった。いつだったか立ち寄った小さな集落で、帰るのを諦めた老人が口の端を上げてぼやいたものだ。自分と同じ年になった娘と再会した、と。その時は老人のもうろくだと気にも留めなかったが、もしかしたらあれは偽りない話だったのかもしれない。ここは異界だ。幻でできた世界だ。時の流れが違ったところで、驚きはしない。
「ひたすら砂ばっかりだね」
 唇を尖らせるヒギタを、ユヅイヤは横目で見た。もしもヒギタがオミコの息子であり、彼の知らない時間が経過しているのなら、今さら顔を出すことは彼女のためにならないだろう。そんな昔のことを持ち出されても、彼女にとっては単なる迷惑だ。ただ彼の気が晴れるだけにしかならない。
「ねえ、ユヅイヤさん」
 不意にヒギタが立ち止まった。数歩遅れて足を止めたユヅイヤは、眉をひそめてヒギタの方へと顔を向ける。大きな布をすっぽりかぶったヒギタの双眸は、ひたすら続く荒野の先へ向けられていた。
「あそこに何かいる」
 ヒギタは前方を指さした。そう言われてはっとしたユヅイヤは、慌てて目を凝らす。巻き上がる砂のせいで視界は相変わらず悪い。しかしよくよく見てみると、その中に小さな点が見え隠れしていた。それはどうも、こちらへ近づいてきているようだ。
「まずい」
 奥歯を噛んで、ユヅイヤは腰からぶら下げた短剣へと手を掛けた。あれはおそらく獣だ。もしかしたら先ほど殺したバチルの血の臭いに誘われてやってきた奴らかもしれない。遠目に確認する限りでも、少なくとも数匹はいるようだった。数が多ければ、ヒギタを守りながら戦うのは厳しい。
「どうしたの?」
「あれはおそらく獣だ」
「獣? 襲ってくるの?」
「生き物なら何でも食えると思ってる奴らだからな」
 徐々に茶色の点は大きくなり、獣だと断定できる程になった。長い鼻に尖った耳、細い体に長い四つ足。姿形からするとやはりバチルの一種だろう。やや小さめの印象だが、かなりの距離を走っていただろうに、疲れた様子がないところはさすがだ。ユヅイヤは短剣を構えたままヒギタへと一瞥をくれた。
「前へ出てくるなよ。動きはそれほど速くないが、油断はできない」
「ユヅイヤさん一人で!?」
「これくらいはなんてことない」
 強がりもここまで来ると馬鹿の戯言だ。足を取られやすい砂の上では、尋常ではない脚力を持つバチルたちの方が有利だった。一斉に飛びかかられたらひとたまりもない。しかし、だからといって怯んでもいられない。ユヅイヤは瞳をすがめて呼吸を整えた。奴らは頭がよくない、それだけが救いだ。
 まず、最初の一匹が飛びかかってきた。身を捻ってその牙をやり過ごしたユヅイヤは、右手の一振りをバチルの首へとお見舞いする。即死とまではいかない浅さだが、すぐに動けるような傷でもない。耳障りな悲鳴を上げた一匹から目を離すと、彼は次の一匹へと視線を向け――根拠のない勘で左へと飛んだ。
「ユヅイヤさん!」
 右足に鋭い痛みが走った。が、そこには目もくれず、迫り来る一匹の顔面へと、ユヅイヤは短剣を突き刺した。この際返り血など気にしていられない。無理な体勢からの一撃はバチルの頭蓋をかち割ることはできなかったが、これで目は使い物にならなくなった。地面へと落ちたバチルは、のたうち回りながら血を吐く。
 ついで、彼は右手を振り返った。そこにいたのは小さなバチルだった。長い前足の先にある爪が、赤く濡れている。ユヅイヤへ飛びかかってきたのはこのバチルだろう。だが威嚇するような唸り声を上げたバチルが睨みつけているのは、小刀を構えたヒギタだった。狙いを変えたようだ。
「ヒギタ!」
 小柄なバチルが再び飛び上がる。ヒギタは動かない。右足の痛みを無視して、ユヅイヤも砂を蹴った。フードがはずれて、翻ったマントが大きな音を立てる。バチルの前足がヒギタの頭目掛けて振り下ろされた。が、ヒギタはそれを半身引くことでかろうじてかわした。緑の布を引き裂いたかぎ爪が、ヒギタの体と共に砂へと落ちる。だが落下するバチルの下には、小刀を握るヒギタの手があった。小さなバチルが咆哮する。
「くそっ!」
 怒りに眼を見開いたバチルの首へと、ユヅイヤは思い切り短剣を突き立てた。一度体を大きくのけぞらせてから、バチルはその場で四肢を痙攣させる。短剣を引き抜くと、ユヅイヤはその首根っこを左手で掴んで砂の中へと放り投げた。そして辺りへ視線を配ってから呼びかける。
「ヒギタ! おい、ヒギタ!」
「うぅっ」
「しっかりしろ! 立てるか!?」
 大声を上げたせいで盛大に砂を吸い込み、ユヅイヤは咳き込んだ。砂混じりの唾を吐き捨てると、足下に広がる真っ赤な染みが目に入り、腑の底がひやりとする。右足の痛みも先ほどより強くなっていた。動いたせいで傷が広がってしまったのか? 大した一撃ではなかったと踏んでいたが、そうでもなかったらしい。
「くそったれが……」
 呻きながら片膝をつき、ユヅイヤは後方を振り返った。それとほぼ同時に、目をやられたバチルがどうにか立ち上がり、獲物を探し求めて歩き出した。この最後の一匹を仕留めなければ安心はできない。ユヅイヤは痛みを堪えて立ち上がった。強風に煽られて、薄汚れたマントが揺れる。
 足が重い。熱い。彼は歯を食いしばり、短剣を握る手に再度力を込めた。血の臭いで当たりをつけてきたのか、何も見えないはずのバチルが走り出す。だがこの砂の上となると、目が利かない状態では全ての動きがぎこちない。
「このっ!」
 ユヅイヤは左足で砂を蹴り、大口を開けたバチルの脳天へと短剣を振り下ろした。骨を砕く確かな手応えに息を吐くと、断末魔の悲鳴を上げてバチルがその場に崩れ落ちる。
「あの婆さんが言ってた通り、本当に竜の牙なのかもな」
 血の滴る剣を横目に荒い呼吸を繰り返し、ユヅイヤはその場に座り込んだ。焼けるように熱い右のふくらはぎからは、今も鮮血が流れ出している。あんな小さなバチルの爪にこれほどの威力があるとは。どうせならあの怪しい老婆から血止めの薬ももらっておけばよかったと、今さらなことをユヅイヤは考えた。その代わりに色々な物を失っただろうが。
「そうだ、ヒギタ――」
 爪と言えばヒギタだ。布越しにかすっただけでも、ヒギタの小さな体であれば無事では済まない。ユヅイヤはよろめきながら立ち上がり、ヒギタのもとへと駆け寄った。血の滴る不快な音も今は無視だ。ヒギタに何かあったら、オミコに一生顔向けができない。
「ヒギタ、大丈夫か!?」
「うぅ」
 ヒギタの手から、もう小刀は離れている。緑の布を引き剥がすと、その下から現れたのは裂かれたララダの胸当てだった。しかしそこに真っ赤な染みはない。防具が犠牲となったおかげだ。
「よかった」
 安堵した途端、急速な目眩が襲ってきた。目の前が暗くなり、どちらが前でどちらが上かわからなくなる。自分が立っているのかどうかも確信できない。血の臭いと風の唸り声だけが、彼の感覚を刺激していた。
「おい、ちょっと、待てって」
 まさか失血しすぎたのか? 死んだ獣の側に倒れ込むなど馬鹿のする行為だと、ユヅイヤは片手で頭を押さえた。だが視界が回復することはなく、それどころかますます体が重くなっていく。
「ユヅイヤさん? ユヅイヤさん!?」
 ヒギタの悲鳴じみた声が頭蓋に響く。それさえ次第に遠ざかっていくのを自覚しながら、ユヅイヤは誘惑に抗えず瞳を閉じた。急速に襲い来る寒気に、体が震えた。

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