未来の魔法使いたちへ

第一話 進路相談

 古くさい鐘の音が鳴り響いた。張りつめていた空気が一気に緩んで、厳つい顔のシャフリヤール先生が分厚い本を閉じる。
「今日はここまで。明日は八十三ページからだ、予習してきなさい」
 そう宣言する先生の声は、けれども誰にも届いていないようだった。目の前の席だから私には聞こえたけれど、解放感に包まれた皆の意識はもう先生には向いていない。
 これで今日の授業は終わりなのだからそれも仕方がないだろう。夏の日差しさえ差し込んでこないものの、教室には熱気が籠もっていた。誰だってここから早く抜け出したいに違いない。
 がらりと、扉の開く音がした。早く抜け出したいのは先生も一緒だったらしい。不機嫌な顔の彼は足早に教室を出ていった。何も言わない背中が扉の向こうへと消えていく。
「ねえねえ、ナハルー」
 すると先生がいなくなったのを見計らって、私の肩を叩く手があった。振り返れば深緑のローブ――学生服と呼ぶにはお粗末なただの一枚布だけれど――を着たシリーンが期待に目を輝かせている。次に彼女が口にする言葉を予想しながら、私は小首を傾げた。
「なーに? シリーン」
「マーサーさんのアイス食べに行こうよー。私もう暑くてたまんないっ。このローブ、通気性全然ないんだもん。夏用なのにさあ」
「けちってるんだよ、きっと」
 ささくれのある木の椅子から、私は立ち上がった。マーサーさんのアイスは粘りけがあるけどさっぱりした味の、ここカマール学園の生徒にも大人気のアイスだ。私だって食べたい。けれども重要なことを思い出して、私は誘惑を振り払った。首を横に振るとシリーンは不思議そうに目を丸くする。
「ごめん、シリーン。私今日ハスティー先生と進路相談する日なんだよね。だから行けないや」
「あーそっか。今日進路相談の日か。私明後日だよ、面倒だよねえ」
「本当、面倒」
 顔をしかめるシリーンに、私は相槌を打った。今年で私たちは三年生、つまり秋までには卒後の進路を決めなければならない。卒業すれば晴れて一人前の魔法使いだ。さらに研究生として学ぶもよし、誰かの弟子になるもよし、働き口を見つけるもよし、とにかく自由となる。けれども私はまだ何も決めていなかった。魔法使いになる、という実感がわかないのだ。
「まあとにかくわかったわ。じゃあ今日はセペフルと食べに行く」
「うん、そうして」
「じゃあね、ナハル。また明日ねー!」
 そう言い残して残念そうに、でも切り替え早くシリーンは去っていった。私はその背中を見送ってからため息をつく。教室を見渡せば残っているのは数人の生徒たちだけだった。それもすぐに私だけになるだろう。誰だってこの暑い教室に残りたくはないはずだ。
「あーあ」
 憂鬱な気分がこみ上げた。古くさい臭いのする魔法書を布の鞄に放り込み、力無く椅子に座り込む。
 パンをひたすら焼くだけの家業を継ぐ気にはなれないし、かといって勉強好きではない自分が研究生というのも想像できない。雇ってくれるところも、弟子に取ってくれる人にも心当たりはない。私の前には道は見えなかった。
「こら、何そんな暗い顔してるの」
 そこで思考をとどめる一撃が、小気味よい音を発して頭を直撃した。痛みに片目を閉じながら見上げれば、すぐ上には薄い本がある。本を手にした主をにらもうと、私は唇を尖らせながら振り返った。
「ちょっとハスティー先生、今のでさっき覚えた魔法陣忘れちゃったじゃないですか」
「へー、あれ覚えたの? それはそれは優秀な生徒ねえ、先生感激」
「ば、馬鹿にしてるー。ひどい先生、生徒馬鹿にするなんてっ」
 背後に立つハスティー先生を、私は見上げた。一人前の魔法使いだけに認められた黒いローブを着て、先生は悪戯っぽく笑っている。
 もう三十半ばだという先生は、教師らしくない教師として有名だった。口調はぞんざいで、声は快活で、生徒を追いかけて廊下を駆け抜けることは日常茶飯事だ。綺麗な顔立ちなのに浮かべる笑顔はいつも子どもっぽい。赤茶色の髪だって動きやすいようにと短く切りそろえられ、大人の女性らしさは皆無だった。
 だからこそ生徒にも人気があった。彼女が担任でよかったと、こっそり私は思っている。シャフリヤール先生だったら絶対息が詰まってる。もちろん当人たちには絶対言わないけれど。
「まさか、そんなことないわよ。やーねー、思い当たるふしがあるからそんな風に思うのよ?」
「嘘だ、絶対思ってる」
 先生は私の隣の席に腰を下ろした。ふと教室へと視線を巡らせれば、既に生徒は一人もいない。これならここで進路相談をやっても問題なさそうだ。私は唇を結びながら怒りの瞳で先生を見上げた。
「ほら、怒らないの。これ、食べる?」
 すると先生はローブの脇に手を入れて、小さな紙包みを取り出した。見慣れたその姿は近くのお菓子屋のクッキーだ。もらえるものはもらおうというのが信条なので、私は素直にその包みを受け取っておく。
「進路決まってないの、あとナハルを入れて四人なんだけど」
「シリーンと……あとボルナーとかダリュシュ?」
「そう」
 先生は頬杖をついて考え込むような仕草をした。でもその横顔は困ったようには見えないので、私は黙ってクッキーを口にする。ほのかに広がる甘みにオレンジの酸味が加わって、何とも言えない美味しさだった。普段私たちには買えない高い方のお菓子に違いない。先生って儲かるのかなあと思いながら、クッキーのかけらを飲み込んだ。
「でもね、シリーンは家業を継ぐかどうかで迷ってるし、ボルナーは隣町の魔法協会からの申し出を受けるかどうかで迷ってるし、ダリュシュも研究生になるかどうかで迷ってるのよ」
 けれども続けて放たれた言葉に、私は思わず瞼を伏せた。そう、全く何も決まっていないのは私だけなんだ。そんなことくらい何度も小耳に挟んでいる。
「だって」
 そう口にして、でも続けるべき言葉が出てこなくて私は黙り込んだ。言い訳も浮かばないし、実感がないなんてとても言えない。すると先生の手が不意に頭を撫でてきた。驚いて目だけで見上げると、微笑みながら私を見つめている。
「別にねー、責めてるわけじゃないのよ? 悩まない方がおかしいし、進路なんてそんなに簡単に決められるものじゃあないしね。ただね、怯えてるんじゃないかと思って」
「怯え……?」
「一人前になることに」
 私は、息を呑んだ。実感がわかないというのは、つまりそういうことなのかもしれない。けれども認めるのが恥ずかしくて、撫でてくる手を払いのける。
「子ども扱いしないでよ、先生」
「あら、子どもでしょう? そういうことはせめて卒業してから言いなさいね」
「先生の方が子どもっぽいくせに……」
 精一杯の反論は、しかし艶のある笑みに打ち消された。怒らせたら宿題増やされる可能性があるのだと気づいて、私は慌てて口をつぐむ。学園祭が近いのにそれは拷問だ。機嫌を損ねない方がいいだろう。
「そうだ、先生はさ、どうして教師になろうと思ったの?」
 急いで話を変えようと、私は頭に浮かんだことをすぐ問いかけてみた。頬杖をついたままの先生はうーんとうなりながら、やや視線を上へと向ける。耳にかけてあった髪がさらりと落ちた。ほんの少しだけ、大人を感じる。
「私はね、実は教師になろうと思ったんじゃないの。研究がしたくてここに残ったの。でもそれだけじゃあ食べていけないから、だから教師やってるだけで」
「え、先生研究なんてしてたんだ」
「あら、知らなかったの?」
 思わず声をもらすと、いたずらっぽく先生は笑った。子どもっぽくて活動的で明るい先生と研究はどうにも結びつかない。シャフリヤール先生ならわかるけれど。それでも興味がわいてきて、私は先生をじっと見つめた。
「何の研究してるの?」
「最近はあんまり時間なくてやってないけど。古代魔法の研究よ。この辺り一帯はね、かの有名なファリドの住んでいた町なの。彼の生家や研究所もあるらしいけど、まだ見つかってないのよね。でもいつか見つかると思うわ、絶対」
 研究なんて話は嘘くさいと思っていたけど、そう言って目を輝かせる先生は本当に嬉しそうだった。ほんとうに好きなんだと、その瞳が叫んでいる。
 でもファリドという名前はほとんど記憶になかった。確かずいぶん昔に亡くなった有名な魔法使いだったと思うけれど、あまり覚えていない。
「あ、その顔は覚えてないなあ、仕方ない生徒ねえ」
「え? ええっ?」
「ばればれよ。私が教えたでしょう? ファリドっていうのは今ある魔法の基本体系を作り上げた人よ。でもある時から禁忌と呼ばれる魔法に手を染めて、追放された魔法使い」
 先生の人差し指が私のおでこを突っついた。それでも記憶になくてうなり声がもれる。これだから赤点なんだよなあ。実技は全然問題ないのに。
「まっ、そういうこと。じゃあ進路相談はここまでにしましょう。このまま教室にいると暑くて倒れそうだしね」
「やったー! このローブ暑くて死にそうだよ先生。どうにかならないの?」
「それはお偉い先生に言ってね、私もどうにかしてあげたいけど、その生地の方が安いんだってさ」
「うわあ、やっぱりけちなだけなんだ」
 私は文句を言いながら先生と一緒に立ち上がった。思ったよりも早く終わってほっとする。結論どころか進歩もしてない気がするけれど、これ以上集中力は持ちそうになかった。私もマーサーさんのアイスを食べに行こう。今らならシリーンたちに追いつくかもしれない。
「明日の授業はちゃんと聞きなさいよー?」
「はーい、聞きます」
 私たちは先生らしく、生徒らしく言葉を交わすと教室を出た。
 窓の外からは熱い風が、乾いた砂を巻き上げていた。

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