ご近所さんと同居人

第十七話 「砕かれた輪」

 胸が痛い。苦しい。酸素不足なのか頭の中を白い何かが渦巻き始める。視界がかすむのを自覚しつつ、それでも手を引かれながら瑠美子は走り続けた。
 折れた木々が倒れる音、巻き上げられた木の葉の悲鳴、全てが夢の中の出来事のようで実感がない。それでも足に伝わる地面の揺れが、彼女に恐怖を与え続けていた。
 逃げなければ。少しでも一歩でも遠くへ逃げなければ。そう思うのにもつれた足はうまく動かなくて、ともすれば転んでしまいそうだった。
 それでも何とか駆けていられるのは、ソイーオの手があるからだろう。彼女が倒れれば彼はきっと立ち止まる。彼も巻き込まれてしまう。そう思うとどんなに辛くても走ることができた。
「ルミコさん、頑張って」
 時折振り返った彼はそう声をかけてくる。こんな状況で彼女を気遣えるなど驚きだ。彼女はただ必死にうなずくことしかできないというのに、彼にはまだ余裕がある。彼女がいなければ彼はもっと楽に逃げ切れるだろうに。そう考えると泣きたくなるが、今そうしても意味はなかった。とにかく逃げるしかない。
 竜巻との距離はどのくらいか? まだ追いつかれないか? 大きさは少しでも縮んでいるのか? 確かめたい気持ちはあるのだが、振り返る暇はなかった。半分感覚が麻痺した状態で、それでも彼女は走り続ける。立ち止まったら終わり、そんな予感があった。
 刹那、背後で鈍い音がした。頭上を何かが通り抜けていくのを感じて、彼女は思わず息を呑む。その瞬間、前方の地面に大きな枝が突き刺さった。普通は空など飛びそうもない、太い枝だ。彼女の胴回りの半分はありそうなものが、無残な姿をそこに晒している。
 巻き込まれたら死ぬ。見も知らぬ場所に飛ばされなくとも、あの枝のように放り投げられる。彼女は思わず足がすくみそうになったが、さらに強く手を引かれたため立ち止まらなかった。そうだ、怯えている場合ではない。とにかく逃げなくては。
 そう決意を新たに顔を上げると、前方に何か灰色のものが見えた。咄嗟にバルソアのことが頭をよぎり、彼女は顔をゆがめる。まさかこんな時に彼らがやってくるはずがない。そう頭では理解しているのに、恐怖が体に染みついていた。しかし逆に、前方を行くソイーオからは歓喜にも似た声が上がる。
「ノギトさん!?」
 その名前を聞き、彼女は眼を見開いた。確かに、よく見れば灰色の上着には見覚えがあった。ノギトが今朝着ていったもので、昔近所に住んでいた知人からのお下がりだ。ぼろぼろになったのを手直ししたこともある。よく見るとその左手には、練習用にと以前城から払い下げられた弓があった。
 すると余計なことを考えたからだろう。足先に何かがぶつかり、彼女は思いきりよろめいた。勢いがあった分バランスが取れず、倒れかかった彼女の手をソイーオが引き上げる。左腕に痛みが走るも、彼女はかろうじて呻くのだけは堪えた。ソイーオは速度を緩めると、ふらついた彼女の体を引き寄せる。
 何とか倒れずにすんだ彼女は、欲求に逆らえず振り返った。その先には、徐々に近づいてくる赤い竜巻の姿があった。先ほどよりもやや小さくなっているが、どう贔屓目に見ても消えてくれそうにはない。
 喘ぐような呼吸を繰り返しながら彼女は瞳を細めた。心が折れそうになる自分を叱咤し、胸を押さえる。諦めたら終わりだ。彼女だけでなくソイーオたちも巻き添えになってしまう。
「ルミコっ、ソイーオ!」
 そこへノギトの声が響いた。ソイーオに支えられながら無理矢理頭をもたげると、まなじりをつり上げたノギトの顔が見えた。かなり怒っているのだろう。その鋭い視線は彼女とソイーオを捉えると、ついでその先へと向けられた。赤い竜巻がいるだろう場所を睨みつけて、ノギトは手にしていた弓を構える。
 風を切る音が、本来なら聞こえるはずだった。だが竜巻の唸り声に負けて、それは彼女の耳に届かなかった。彼女とソイーオの横を通り過ぎた矢は、勢いを失いながら竜巻に飲み込まれる。無論何も起こらなかった。竜巻の進む速度が落ちたようにも見えない。木の葉と同じように、それは消えただけだった。
「ちっ」
 走り寄ってきたノギトが舌打ちをした。そして彼はかろうじて立っている彼女の横に近づくと、ソイーオを一瞥してからまた竜巻を睨み上げる。
 押し倒された木々の悲鳴に彼女は顔をゆがめた。逃げなくてはと思うのに足が動かない。呼吸をする度に肺が痛むようで、目眩もして、自分がここにいるという感覚も怪しかった。
「馬鹿野郎! だから勝手に森に行くなってあれだけ言ったのに」
 怒鳴りつけてくるノギトに言い返すこともできなかった。どうしてここにと問いかけたいのに、声が出てこない。そうしようとしても喉が痛むだけだ。それを怪訝に思ったのかノギトは眉根を寄せ、ついでもう一度ソイーオを見た。彼女もそれに倣う。
 頬を張らしたソイーオの息も、よくよく見れば荒くなっていた。余裕があるように思えたのは気のせいだったのだろうか? 隠していたのだろうか? 殴られてふらついていたことを今さらながら思いだして、彼女は唇を噛んだ。きっと彼は無理をしていたのだ。
「ったく」
 するとなんの前触れもなくノギトの手が伸びてきて、彼女の体を担ぎ上げた。予想もできない素早さだった。荷物のように持ち上げられて慌てるも、まともな文句は口から出てこない。代わりに絞り出したような吐息が漏れるばかりだった。
「走るぞっ」
 そのまま森の出口へと駆け出すノギトに、ソイーオが続いた。担ぎ上げられた状態のまま走るというのもなかなか辛い。目尻に滲んだ涙を何とか振り払うと、彼女は顔を上げて竜巻を見た。
 近い。立ち止まった分だけ、明らかに竜巻との距離が縮んでいる。大きさこそやや縮んだような気がしたが、それでも消えてくれるとは思えなかった。出口まで間に合うのか? 鼓動が痛いくらいに感じられる。
 一本、また一本木が倒れる。むしり取られた草が宙を舞い、赤い渦の中へと消えていく。彼女を抱えているせいかノギトも速度を上げられないようだった。その後ろをついてくるソイーオも、何とか走っているような状態だ。いつ限界が訪れてもおかしくはない。
 するとソイーオの双眸が不意に彼女へと向けられた。疲労が色濃く滲んだ瞳で、それでも彼は優しく笑った。彼女にはそう見えた。
「……え?」
 すると唐突にソイーオは足を止めて、彼女へと背中を向けた。つまり、赤い竜巻に向き直った。青銀の髪が風に煽られて、場違いな程優雅に揺れる。かろうじて声を漏らした彼女は、慌ててノギトの背中を叩いた。
「ノギトっ!」
 無理矢理絞り出したせいか喉が痛い。咳が出る。しかも叫んだつもりなのにかすれた声しか出せなかった。だがそれでもノギトは気づいてくれた。振り向いた彼はソイーオが立ち止まったことを知り、再度舌打ちしながら彼女を下ろす。
 地面へと着いた彼女の足は、その体を支えきれなかった。思わずそのまま地に膝をつくと、その頭上でノギトの声が響く。
「ソイーオ!」
「このままじゃあ三人とも巻き込まれます」
「お前、まさか!?」
「下がっててください。……大丈夫です、約束は破りませんから」
 ノギトが進み出ようとするのを、ソイーオの落ち着いた声が制止させた。風の音でかろうじて聞こえる程度なのに、その声音には力があった。ソイーオはほんの少しだけ肩越しに振り返ると、先ほどと同じように微笑して片膝をつく。そして側にあった岩へと手を打ち付けた。
 金属音に近い嫌な音がした。そう、打ち付けたのは青い腕輪だった。魔法を封じるそれは呆気なく砕けると、破片と共に彼の手首から落ちる。その指先を伝って、地面へと赤い血がしたたった。
「ソイーオさんっ」
 彼女は躊躇わずにあらん限りの声で叫んだ。けれどもソイーオはもう振り返らなかった。竜巻と対峙した彼は、血を拭うことなくそれを前方へと向ける。ノギトの手が彼女の手首掴むと同時に、ソイーオの口から耳慣れない言葉が紡ぎ出された。
 風の音に掻き消され、木々の折れる音に紛れ、ほとんど聞き取れない何か。それでもそれが何であるかは予想がついた。おそらく魔法を使うための呪文だ。ノギトの手によって引き上げられた彼女は、強い風に吹かれてよろめきながらも立ち上がる。そのすぐ脇で草が、葉が、細い枝が舞った。
 ソイーオの左手が右手に重なった。刹那、竜巻が突如として縮んだ。人の背丈の二倍程の大きさになって、その速度が急激に落ちる。ソイーオの目の前で、その勢いは明らかに衰えた。
 彼女は歓喜の声を上げそうになった。が、それは悲鳴に変わった。そのまま消えるかと思えた竜巻は、それでも前へ前へと進んでくる。
「ソイーオさん!」
「ソイーオ!」
 彼女とノギトの声が重なった。手を前方へ突き出したまま、ソイーオの体は赤い竜巻に飲み込まれた。はためく上着の端が赤い風の中へと消え、また竜巻は急速に縮む。
 いや、縮んだと思った次の瞬間には消滅した。渦巻く風の名残だけを残してそれは無へと溶け込んだ。巻き込まれるのをかろうじて逃れた草が、乾いた音を立てながら地面へ落ちる。
 世界が変わったかのようだった。それまで森を覆い尽くしていた轟音が消えて、辺りは急に静まりかえった。彼女は声も出せなかった。その場に倒れ込むのだけは、ノギトのおかげで何とか堪えたのだが。
「あいつ……」
 ぎこちないノギトの声が染み渡る。彼の手に力がこもるのを感じながらも、彼女はやはり何も言うことができなかった。口だけではない、手足も何もかもが動かない。体が別の何かに変わってしまったように思えて仕方なかった。
 どこからか思い出したように鳥の鳴き声が聞こえてくる。穏やかな風の囁きが戻ってくる。けれども大切なものが欠けたままだった。その代わりにか巻き上げられていた腕輪の破片が、味気ない音を立てて地面へと落ちた。

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