ご近所さんと同居人

第四話 「見知らぬ世界は」 (前)

 次の朝ディーターと共に出かけたソイーオは、日が暮れても戻ってこなかった。ディーターも帰ってこなかった。夜になるというのに、畑を挟んだ隣家には、明かりが灯されていない。
 暗いままのディーターの家を、瑠美子は眺めて嘆息した。周囲のわびしさも相まって、そこにはうら寂しい気配がまとわりついている。この辺りは家がまばらなせいもあるだろう。夜道の薄暗さには昔はよく怯えたものだった。そんな時も、ディーターの家の明かりが安心させてくれたのだ。
 寝る支度を終えて、瑠美子はまた窓から外を見た。薄雲が張り出した空からは、ぼんやりとした月明かりが漏れるのみ。柔らかいはずの光も、今はやや霞んでいた。瑠美子へとあてがわれた部屋は、少々狭いが景色はいい。だが今はそれも、味わうことができなかった。
「ソイーオさん、大丈夫かなあ」
 彼女の声は、静かな部屋の中に染み渡っていく。魔法使いの扱いについては、ノギトもハゼトも、イムノーやルロッタもあまり知らないようだった。いくら異世界人がよく流されてくる国でも、魔法使いが流されてくる頻度はそう高くない。しかもこの辺りに限定するとなれば、さらに少なかった。
 頭をよぎるのは、いつか聞いた良くない噂ばかり。非人道的な扱いを受けるとまでは思わないが、普通の異世界人とは違う状況にいるはずだった。ソイーオが驚いていなければいいと、傷ついていなければいいと、瑠美子には祈ることしかできない。
 もう一つため息をつくと、瑠美子は部屋の中へと視線を戻す。ベッドの横にある机には、先ほど花瓶を置いたばかりだった。ソイーオからもらった花が、そこには飾られている。
 鮮やかな赤に小さな白い斑点が特徴的な、モノトフ。大きな花びらは重力に逆らえず垂れ下がっているが、その流れの美しさが、一部の女性に根強い人気を誇っていた。見た目の華やかさで、よく花束にも使われている。
 それとは対照的に、小ぶりな花をつけるのがティティフだ。白と見紛う程淡い黄色の花は、とにかくよく長持ちする。主張しすぎない可愛らしさが脇役として人気で、これも花束にはよく用いられていた。十代の女の子が好む花でもある。
「でも後はわからないなあ」
 他にも濃厚な紫が印象的な、どことなくアヤメに似ている花。淡い桃色が可愛らしい、カーネーションのような花もある。ただアヤメやカーネーションにしては小さかった。きっとソイーオの世界にある物なのだろう。
 魔法使いがいるソイーオの世界は、どんな風だったのだろうか? 言葉はヌオビアと近いようだけれど、衣服や食べ物はきっと異なっているはずだ。魔法があるのだから、文化の水準も違うのかもしれない。そんな世界が想像できずに、瑠美子はほうっと息を吐いた。
 早くディーターとソイーオが戻ってきますように。笑顔で帰ってきますように。
 そう祈りながら、瑠美子はまたディーターの家を眺めた。窓越しに感じられる空気の冷たさが、今は心地よかった。



 翌朝早くに、ディーターとソイーオは帰ってきた。ミルクを受け取りに行っていた瑠美子は、その帰り道に、二人の姿を見つけだした。疲れた足取りで家へと入ろうとする彼らを、慌てて瑠美子は呼び止める。
「ディーターさん! ソイーオさん!」
 籠を持ったまま走れば、二人は顔を上げて瑠美子を見た。年齢以上にくたびれた様子のディーターは、薄く笑って相槌を打つ。その隣では顔色の良くないソイーオが、力なく微笑んでいた。一日で急にやせ細ったような印象さえある。
「今帰ってきたんですか?」
 二人の傍へと駆け寄ると、瑠美子は息を整えた。ソイーオが静かにうなずくと、緩く束ねられた銀髪が揺れる。その髪さえ、何だか疲れた色合いに見えた。ソイーオの唇が、ゆっくりと動く。
「僕の魔法を抑えるのに、少し時間がかかってしまって」
「魔法を抑える?」
「ほら、この腕輪。そのためのものなんですが、魔法と言っても色々あるみたいでして。僕のはこの世界と相性がいいみたいで、封じるのに苦労したんですよ」
 ソイーオの手首には、深い青の腕輪がはめられていた。そこには見慣れない紋様や文字が刻まれ、陽光を反射して輝いている。魔法を封じる力は、それらの効果なのだろうか? 瑠美子には全く縁のない世界だった。そういった話は、本で読んだこともない。
「魔法を封じられて、辛くはないんですか?」
「それは大丈夫です。僕の力ってもともとそんなに強くないですから、普段は使ってなかったですし。まあ、この腕輪はちょっと重いですけど」
 少し肩をすくめると、ソイーオはまた力なく笑った。心配をかけまいと、そう努力しているみたいだった。だから瑠美子はそれ以上言葉を継げなくて、仕方なくディーターの方へと視線を移す。ディーターは神妙な顔でうなずくと、蓄えた白い髭へと手をやった。
「ソイーオの力は、召還術に近いらしい」
「召還術?」
「脳裏に描いた物を、ある場所から自分の元へと呼び出すのだ。ただ見たことがある物でなければいけないし、大きな物は呼び出せない」
 召還と聞いても、瑠美子にはよく理解できない力だった。思い出すのは日本にいた頃、友だちがやっていたゲームのことだ。貧乏だった瑠美子は、そういったゲームは買ってもらえなかったが、友人のは時々やらせてもらっていた。
 けれどもああいった世界での召還は、もっとおどろおどろしかった記憶がある。少なくとも花束を呼び出したりはしない。
「だから“流れ”が集まりやすいこの世界では、ソイーオの魔法は強くなる」
「呼び出しやすい、ってことですよね。そういえばノギトもそんなこと言ってたような」
「城では利用されている力らしいからな」
 ディーターの説明に、瑠美子は相槌を打った。丸一日拘束されていたのはそんな理由だったのだ。二人が何かひどいことをされていたわけでではないのだと、瑠美子は密かに安堵の息を漏らす。すると不意に顔を上げたソイーオが、軽く右手を挙げた。
「ああ、ノギトさんだ」
 ソイーオの言葉にはっとして、瑠美子は振り返った。そういえばミルクをもらうために、外へ出たのだった。彼女がなかなか戻ってこないから、痺れを切らして様子を見に来たのだろう。予想通り不機嫌そうなノギトは、大股でこちらへと近づいてきた。
 これから浴びせられるだろう罵倒を想像して、瑠美子は憂鬱になる。ディーターやソイーオの前で口喧嘩をするのは、彼女もさすがに気が引けた。外だからという理由でノギトが落ち着いてくれることを、今は願うばかりだ。
「遅いぞ、ルミコ」
 声が届く距離までやってくると、ノギトは呆れ顔でそう言った。ただ状況から理由はわかったのだろう。何故だと問いつめてくることはなかった。ノギトはディーターたちを気遣わしげに一瞥して、軽く息を吐く。そして首の後ろを掻くと、視線を逸らした。
「ごめん、見かけたものだからつい」
「ああ、それはわかった。でも早く帰ってきてくれ。母さんがルミコに話があるみたいなんだ」
「ルロッタさんが?」
 てっきりノギトが待てなかっただけかと思っていたが、どうやら違うらしい。瑠美子はソイーオたちの方を振り返ると、どうするべきか思案した。本当はもっと詳しいく話を聞きたいのだが、ルロッタを待たせるのは悪いだろう。何より二人には休息が必要だ。瑠美子は籠を持ち直すと、大きくうなずいた。
「わかったわ、ミルクもあるしすぐ戻る」
「おう」
「じゃあディーターさん、ソイーオさん、また今度。今日はゆっくり休んでくださいね」
 ソイーオたちに微笑みかけて、瑠美子は踵を返した。ミルクが落ちないように気をつけながら走ると、背後からソイーオたちの挨拶が聞こえてくる。疲れた声音ではあるが、そこに落ち込んだ響きはなかった。きっと一日休めばまた元気になるだろう。
 瑠美子のすぐ後ろを、ノギトが追いかけてくる気配があった。それでも瑠美子は振り返らずに、真っ直ぐ家を目指す。
 賑やかなことが好きなルロッタは、誰かを待つということが苦手だった。今ごろルミコはまだかと、きっとハゼトやイムノーをせっついているところだ。二人には申し訳ないと思いながら、瑠美子は玄関の扉へと手をかけた。
「ルミコ!」
 予想通り、ルロッタは待ちくたびれた様子だった。ミルクをもらいに出てから、それほど時間は経っていないはずだが、ルロッタにとっては長かったのだろう。玄関まで来ているとは、相当だ。瑠美子はすみませんとだけ口にして、家の中へ入った。その後をノギトがついてくる。
「ルミコ、遅いじゃない。心配したのよ」
「ごめんなさい。ディーターさんたちが戻ってきたのを見かけたので」
「あら、そうなの? よかったわー、ご近所さんがいないと、ここも何だか物騒に感じられるわよね」
 瑠美子が籠を手渡すと、ルロッタは上機嫌な様子で微笑んだ。気分屋な彼女は、もう機嫌を直したらしい。後ろからノギトの苦笑が聞こえて、瑠美子は思わず目配せをした。ルロッタには日常茶飯事のことで、二人はもう慣れている。
「いい話があるのよ、ルミコ」
「いい話ですか?」
 足取り軽く歩くルロッタを、瑠美子は首を傾げながら追った。ルロッタのいい話というのは、大概ささやかなもので、だから瑠美子は気負いもしなかった。
 きっとどこどこの果物が安くなるだとか、誰々がお古の服をくれるのだとか、そういった類だろう。芝居を見に行った時にでも、また知り合いができたのかもしれない。だから続けて放たれたルロッタの言葉に、すぐに瑠美子は反応できなかった。
「ルミコ、お見合いしてみない?」
「……え?」
 思わず立ち止まると、反応しきれなかったノギトが背中にぶつかってきた。だが彼から文句が出ることもなかった。瑠美子は瞳を瞬かせながら、まじまじとルロッタの背中を凝視する。足音が止んだことに気がついたのか、ルロッタは怪訝そうに振り向いた。
「意外だった? もうそろそろ、ルミコも相手を見つけないと駄目よ。この間芝居を見に行った時にね、素敵な方とお知り合いになったの。その息子さんが、この間二十一歳になったばかりだそうよ! ちょうど見合い相手を探してたところみたいだし、ぴったりじゃないの」
 自分のことのように、ルロッタは楽しそうだった。だが瑠美子はすぐに返事などできそうになかった。頭が上手く回らない。瑠美子が困惑した時、いつも率先して発言してくれるノギトも、今回は黙りこくったままだった。瑠美子は眉をひそめて頬へと手を当てる。
「……でも私、異世界人だし」
「何言ってるの! 異世界から流されてきた人が、どれだけいると思ってるの? みんな結婚してるわよ、大丈夫」
「わ、私の世界じゃあ、この年で結婚する人って少なかったから。その、まだ実感がわかなくて」
「会ってみるだけでいいのよ、ルミコ。心配しないで。いい経験になると思って。その年で見合いしたことない人なんて、珍しいんだから」
 ルロッタの輝く瞳を、瑠美子は直視することができなかった。ソイーオのことで、ようやく一息つけたところだったのだ。今は見合いをするような気分ではない。ただ乗り気になったルロッタを説得する術は、瑠美子にはなかった。
「ねぇ、ノギト……」
 仕方なくノギトへと目を向ければ、彼も困惑気にも顔をしかめていた。だがその首がゆっくり横へ振られ、諦めろと告げられる。瑠美子は渋々うなずいた。
「わ、わかりました」
「わかってくれて嬉しいわ、ルミコ! 見合いは明後日よ。準備のことなら、安心して私に任せてね」
 意気揚々と話すルロッタから、瑠美子は視線を逸らした。すると窓からは日の光を浴びる畑と、ディーター家が見える。昨夜の寂しげな様子など、全く感じさせないたたずまいだった。
 そこで不意にソイーオの腕輪を思い出して、瑠美子は瞳を細めた。あの青い腕輪の重さが、それがもたらす見えない痛みが、自分のことのように感じられる。
 しかしソイーオたちのことは心配だが、今はあまり触れない方がいいのかもしれない。無理をさせない方がいいのかもしれない。瑠美子を前にすれば、きっとソイーオはまた力ない笑顔を浮かべるだろう。ならばお見合いでもした方が、彼に会わずにすむ分だけ、良い方へと向かう可能性もある。
 そんな風に無理矢理な理由をひねり出して、瑠美子は自らに言い聞かせた。妙に気分が重くなることには、あえて意識を向けなかった。

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