ご近所さんと同居人

第一話 「ようこそヌオビアへ」

 いつになく強く風の吹く、気温の上がらない午後だった。こんな日は早めに買い出しを終えた方がいいと、瑠美子は足早に街を目指す。歩き慣れた道の傍らには、時折花束が置かれていた。みんな行動が早いなと肩をすくめて、彼女は大きな籠を持ち直す。
 ヌオビアは不思議な国だった。中心にそびえ立つ教会はどことなく東洋的な城を思い起こさせるが、一方周囲に広がる町並みはヨーロッパの田舎を連想させる。もっともそのどちらも訪れたことなどなかったから、写真での知識だった。それでも統一感のない国だと感じてはいるのは、皆同じらしい。
 しかしヌオビアという国の歴史を考えれば、その違和感も納得できるものだった。この国には多くの異世界人が流れ着く。瑠美子もその一人だが、一体どれだけの人がこの国に流れ着いたのか、数えるのも馬鹿らしい程だった。
「ディーターさんでしょう、それからモーオさんでしょう」
 近所にいる異世界人に限っても、すぐに名前が浮かんでくる。瑠美子は指折り数えながら、街への道を急ぎ足で歩いた。今日はこのヌオビアに異世界人が流された最初の日、と言われている。遙か昔のことなのでそれが真実かどうかは定かではないが、今でもそう信じられていた。
 その異世界人の功績が、後々の異世界人の待遇を決めたといっても過言ではない。天才とも称されるその男のおかげで、今瑠美子たちは平和に暮らせるのだった。瑠美子がこの国に流されてきた時は、まだ十歳になる前のことだ。何の役にも立たないそんな子どもを引き取ってくれる人がいるのも、全ては過去の天才のおかげと言っていい。
 道端に捧げられた色とりどりの花を、瑠美子は目の端に入れた。カーネーションに薔薇、百合、ティティフ、モノトフ、様々な花がその存在を主張していた。
「私も花束、買っておかないとなぁ」
 ここに流されたばかりの頃は、すべてが見慣れない物ばかりだった。だが今は一瞥しただけでもそれが何の花なのか言えるくらいにはなった。紛らわしい野菜だって見分けることができる。
 不自由だった言葉も、生活に困らない程度には使えるようになった。一人で出歩くこともできるし、この国の決まりも体に染みついた。日本での生活を忘れたわけではないけれど、彼女はもう立派なヌオビア人だった。自分でそう思えるくらいには、長い月日をこの国で過ごしている。
「もう十年かあ」
 つぶやきながら瑠美子は街を目指した。石の敷き詰められた道は、多くの人の足によってすり減っている。いつ頃からあるのだろう。よく通る道だが考えたこともなかった。
 普段買い物をする商店街はすぐそこだったが、今日はもっと奥の方まで行くつもりだった。せっかくの記念日なのだから、いつもよりは豪華な食事にしたい。気合いの入れ所だ。
「イムノーさんはトリュの肉が好きだから、今日は時間かけて煮込んじゃおうかな。ルロッタさんはメインよりはデザートよね。じゃあナンクルの実を買っておこう。この時期だとちょっと高いけど、たまにはいいよね。ノギトとハゼトは……ま、大盛りにしておけばいいか。これじゃ足りないっていつも騒いでるし」
 家族となってもう十年近く経つ者たちの名を、瑠美子は順に挙げていった。何もわからず、何もできなかった彼女をここまで育ててくれたのは彼らだ。それなのに何もお返しができないのは心苦しいから、せめてこういう時くらいは張り切らなくてはと、彼女は籠を一瞥する。料理なら昔からやっていたから、割と得意なのだ。
「ルミコちゃん!」
 すると商店街の入り口から、名を呼ぶ声が聞こえた。訝しげに顔を上げれば、近所に住んでいたマルテアが慌てた様子で手招きしている。結婚した証とばかりに髪を飾る蝶は、何とも豪華な作りだ。瑠美子は小走りすると彼女に近寄った。それにあわせて短く切った黒髪が耳元で跳ねる。
「マルテアさん、どうかしたんですか?」
「たった今聞いたばかりなんだけどね。森の方でまた異世界人が見つかったらしいよ。何でも若い青年だとか」
「異世界人が森で?」
 問い返すとマルテアは大仰にうなずいた。異世界人が見つかるのは珍しいことではないが、それでもこの近くに流れ着くというのは前例があまりない。少なくとも瑠美子がこの国に来てからは、初めてのことだった。だからだろうか、マルテアの瞳も輝いている。
「ねえ、ちょっと見に行かない?」
「行きます!」
 マルテアの誘いに、瑠美子は首を縦に振った。瑠美子と同様マルテアの籠も空だが、今はそれより異世界人のことが気になる。買い物ならば後に回しても時間はあると、瑠美子は自分に言い聞かせた。煮込む時間はちょっと短くなるかもしれないが。
「じゃあすぐに行きましょう、ルミコちゃん」
 瑠美子はマルテアと一緒に森へと走った。膝丈まであるスカートがこういう時には邪魔だった。ズボンだったら楽なのになと、つい日本が懐かしくなる。ヌオビアでは女性はスカートをはくのが一般的だった。ズボン姿の女性は見かけたことがない。短いスカートも、あまり見かけなかった。
「走るのなんて久しぶり」
 隣を行くマルテアの息は上がっていた。小麦色の髪を結った姿は大人に見えたものだが、こうやって笑う姿は記憶にあるマルテアと同じだ。年が近い同性としてずっと良くしてくれていたのだ。結婚してやや家が遠くなってからは、会う機会は減ってしまったが。
 瑠美子はうなずくことで同意し、邪魔になりそうな籠を抱える。ヌオビアは森と山に囲まれた平たい土地にあり、その中でもここラノウラ地方は端の方に位置していた。だから森へはさほど遠くない。このまま走り続ければすぐ辿り着くだろう。
 しばらくすると森の端が見えてきた。そこには、遠目でもわかる程度に人だかりができていた。マルテアにも見えたらしく、その指先が遠くの集団へと向けられる。
「あ、あそこね」
 森というからてっきり奥の方かと思っていたが、ほとんど入り口といってもよい場所だ。それとも運び出したのだろうか? 瑠美子は首を傾げながら人だかりへと駆け寄る。マルテアの荒い息がその後を追ってきた。さらに近寄れば、人々が口々に騒ぎ立てているのが聞こえてきた。
「気絶したままだとさ」
「死んでるのか?」
「いや、生きてる生きてる。たぶん」
「医者は?」
「今呼びに行ってるってさ。それよりこの男の預かり人の方が問題だ」
「ああ、医者にかかるにも登録が必要だからなあ」
 次々と声が上がるせいで誰が喋っているのかわからない。それでも交わされる会話から何となく状況は把握できた。異世界人が流れ着いたのは事実らしい。
 瑠美子は異世界人をこの目で確認したいと、何とか体を潜り込ませた。しかしその後ろでは、上手く入り込めないマルテアがやきもきしていた。せっかく結い上げた髪が乱れるのを嫌がっているのかもしれない。籠を抱きかかえたまま眉根を寄せ、誰か入れてくれないかと辺りをうろうろしていた。
「彼なら、私が預かろう」
 すると聞き慣れた声が前方から上がった。籠を抱えた瑠美子はどうにかして体をねじ込み、集団の先頭へと進み出る。すると予想通り、そこにいたのはディーターだった。白い髭を蓄えた男が一人、倒れた青年の前へと進み出ている。瑠美子は彼に向かって手を振った。
「ディーターさん!」
「ああ、ルミコか」
 瑠美子のお隣に住むディーターは、ドイツから流れてきた異世界人だった。もう七十近くで真っ白な頭をしているが、まだまだ働けると時折手伝いにも出かけている元気者だ。同じ異世界人ということで瑠美子もずっと良くしてもらっている。
 ディーターは一瞬優しい笑顔を浮かべると、ついで集まった者たちの顔をぐるりと見回した。確認のためだろう。それに対して周りから異論の声が上がることはなかった。いや、むしろ皆はディーターに感謝しているようだった。
 異世界人を引き受けるのはそれなりに面倒なのだと、瑠美子もよく知っている。幾つかある手続きが厄介なのだ。それさえ終わってしまえば特に問題はないのだが。
「そうだな、ディーターさんだったら心配ないな」
「同じ異世界人だしな。この青年も安心できるだろうし」
 ほっとした様子で次々と都合のいい言葉が放たれる。しかしディーターは全く気にしていないようだった。温かな青い瞳を細めて、彼は足下に寝ころぶ青年を見下ろす。
 その視線につられて、瑠美子も青年を見た。毛布を被った青年は、固く目を瞑ったまま弱々しい息をしていた。青銀の髪は緩く耳の横で束ねられ、くすんだ毛布の上に映えている。また絹のような光沢のある衣服には見慣れない模様が縫い込まれていた。本当に異世界人なのだと、改めて瑠美子は実感する。
「私は異世界人の申請をしてくる。医者が来て彼を動かしていいとわかれば、私の家まで運んでおいてくれ」
「おう、任せてくれディーターさん」
「頼む、ディーターさん」
 ディーターの言葉に数人が大きくうなずいた。瑠美子もそれに倣うとその場にしゃがみ込み籠を横に置く。青年は身じろぎ一つしない。そのことに不安を覚えながら顔を覗き込めば、強い風が二人の髪を揺らしていった。不意に青年の胸が大きく上下する。
 生きてはいる。気を失っているだけだ。安堵した彼女は瞳を細めた。この世界に流れてくる時、意識を手放してしまうのは常なのだそうだ。彼女もディーターもそうだったと聞いている。
「ディーターさんがいるから大丈夫」
 聞こえていないだろう彼に向かって、彼女は囁いた。そしてディーターの去る足音を聞きながら口の端を上げた。
「ようこそヌオビアへ」

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