白の垣間見 1

 頭上から、名を呼ぶ声が聞こえた。幼い子どもが笑うような楽しげな声音は、何か悪戯でも企んでいるものに思えて。リーツは必死に重たい瞼を開けると、のろのろと体を起こす。ここはどこだろう? 回らない頭で彼は考える。
 いつの間にか眠っていたらしい。痛む肩をほぐしながら右へ視線をやると、窓の外では見せかけの太陽が輝いていた。思わず目を細めた彼は、額に皺を寄せつつ乾いたつばを飲み込む。ゆったりと流れる雲の横では、まやかしの鳥が羽を広げていた。
 まさかもう昼時なのか? あくびをかみ殺すと、彼は強ばった首を巡らして周囲を確認する。だが辺りには誰もいなかった。それどころか靴音一つない。あの声は夢の中のものだったのか? 落ち着いて考えてみれば、この研究所に子どもがいるはずなかった。
 彼が横になっているのは古ぼけたソファの上だった。研究室へと続く廊下の隅に設けられた、休憩用スペースにあるものだ。どうしてこんなところにいるのだろう? 彼の記憶にあるのは、昨夜眠気覚ましにと廊下へ出たところまでだった。ということは、ソファを見つけてほぼ無意識に倒れ込んだのだろうか。彼は顔を引き攣らせる。
「うわ、やっちまった」
 首を鳴らしながらソファの背にもたれかかり、彼は寝癖のついた髪に指を差し入れた。行き詰まった論文のせいでここ数日寝ていなかった。それでも、あともう少しというところまで来たのだ。しかしこれでは今日も書き上がりそうにないと、彼は重いため息を吐く。
「今日、何もなかったっけなあ」
 放置されていたということはそうなのだろうか。ここにいれば誰かしら通りかかってもいいはずだが、起こす気はなかったようだ。よれよれになった白衣の裾を無理矢理伸ばして、彼は立ち上がる。
 頭の右側が痛んだ。しかしこれは寝不足時の癖のようなものなので、あえて意識しないようにする。彼はそのまま重たい足取りで研究室へと歩いた。
 薄鼠色の廊下に反響する足音は一つで、この建物には誰もいないのでと錯覚するような静けさだった。おそらくみんな部屋にこもっているか、仮眠でも取っているだけだろう。論文提出の締め切り近くはいつもそうだった。
 薄汚れた研究室に入ると、彼は後ろ手に扉を閉めた。まず目に入ってくるのは本棚から溢れ出した本、そして整理し切れず床に積まれた資料の山。かろうじて物が置けそうなのは奥にある机の上だけだった。そこを死守しなければいけないというのは、幼馴染みであるセレイラからの忠告の一つだ。昨日もやかましく注意されたので、渋々と片付けたばかりだった。
「あれ?」
 その唯一何もないはずの机の上に、見慣れぬ物が置かれているのに彼は気づく。細長い金属に何か布が巻かれているようだ。資料の山をまたいで進んだ彼は、机の前へと辿り着く。それは鍵だった。さび付きかけたものを保護するつもりなのか、生成り色の布に包まれている。鍵の先だけが飛び出している状態だ。
「ああっ、今日は当番の日かよ」
 彼は顔をしかめると頭の後ろを掻いた。伸びた髪を無意識に引っ張ったためか、銀糸が数本指に絡みつく。それを適当に振り解いて、彼は鍵を拾い上げた。崩れ落ちそうな書類に白衣が触れないよう、念のため気を遣う。
 その鍵は見回りの際に必要な物だった。いつもは手渡しされるはずだが、彼が不在だったので勝手に置いていったのだろう。彼の研究室への出入りは実質自由だ。仲の良い者ならみんな知っている。
 見回りの相方はいつも通りセレイラだろうか。そう思うとますます憂鬱になり、彼はきつく眉根を寄せた。
「まいったなあ」
 彼女とは昨日の夕方、盛大に喧嘩したばかりだった。互いに苛々していたため些細なことから口論となり、そのまま別れたきりなのだ。一晩経てば忘れる彼とは違い、彼女はまだ怒っているだろう。役目を放り投げるようなことはしないはずだが、不機嫌なままであることは予想できた。
「あー、よりによってこんな時にっ」
 だが文句を言ってもどうしようもない。それより一刻も早く鍵を持って行かなければ、見回りの時間に間に合わなくなる。彼は踵を返すと扉へと向かった。翻った白衣が書類の束をかすめた気がするが、雪崩れるような音は聞こえなかったので振り返らない。
 人気のない廊下を、彼は早足で駆け抜けた。窓から見える灰色の建物は、高く昇った日差しを浴びて鈍く輝いている。――それも全てはまやかしのようなもので、ここから太陽など見えないのだが。
 彼の通うこの研究所は、ここらの星々の中でも変わり者の集まりとして有名な場所だった。数少ない中立研究施設であり、惑星イルーオを丸ごと利用して、他の星とは物理的にも政治的にも一定の距離を保っている。
 イルーオの中で人が住んでいるのは、一つの巨大なドームの中だけだった。研究やその他の生活に必要な設備は、全てそのドームの中に収まっている。研究所の中に街があると言うべきなのか、街の中に研究所があると言うべきなのか、どちらとも断定しがたい状態となっていた。
 ただ誰もがドームを出ずに生活できるのは便利だが、一つ問題があった。その外だ。そこはいわば手つかずの状態で、いまだ荒廃した土地が広がっている。空気は一応存在しているのだが、人工太陽から遠いため常に氷点下の世界だった。そのため普段は誰も外へは行かない。
 しかしだからといって、外からドームを点検しないわけにもいかなかった。ドームの中のことなら大抵は中央で管理できるが、どうしても外の異変は見逃しやすい。そこを補うのが、彼らのような見習い研究者の役目だった。
「この間は確か二ブロックだったから……今日は三ブロックか。ってことはこの棟から行けるなっ」
 前回の見回り時のことを思いだし、彼は歩きながら安堵の息を吐く。研究所は幾つかの建物に別れており、大体がドームの壁に隣接して存在している。それぞれがかなり離れている場合も多く、そちらまで行くとなると時間を要した。今日は不幸中の幸いにも三ブロックなので、ここ第四研究所の隅に扉が設置されている。
 彼は白衣のポケットから紐を取り出すと、切り損ねて伸びた髪を束ねた。貧乏くさいだの不衛生だのとセレイラをまた怒らせないためだ。忙しくとも身なりを整えるのが彼女の主義らしい。そこが彼とは大きく違った。
 普段よりも急いで向かったためか、予想したより早く扉の前に辿り着くことができた。明かりも少ない廊下の隅にあるそれは、一見古ぼけた鏡のようにも見える。そこに鍵穴が、そしてその傍に妙なもこもこのコートがなければ、彼も見過ごしてしまったかもしれない。
「気温は……氷点下二十度。まあいいところかな。ってセレイラの奴、まだ来てないのか? ひょっとして拗ねて来ないつもりか?」
 扉の隅に表示された数字を見てから、彼は辺りを確認した。彼女の機嫌を損ねたくなくて慌てて来たというのに、その肝心の当人がいない。だが先に一人で見回りに出たとは考えられなかった。見習い研究者に貸し出される鍵は、複製された一本だけだ。親鍵は中央研究室にて厳重に保管されている。
 彼がなかなか来ないため呆れて帰ってしまったのか。いや、彼女がこういった仕事を放棄するとも思えない。まさか彼を探しに行ったのか? 行き違いになったのか? こういう場合はどうするべきだろうかと、彼は首を捻った。研究室に戻った方がいいのか、それとも彼女の研究室に行くべきか、待つべきか。悩ましい。
 彼がその場で唸っていると、ふと空気が変わったように思えた。無機質な空間に誰かが通りかかる時の、例えようがないわずかな変化。それを察知して彼が振り返るのとほぼ同時に、廊下に高い靴音が反響するのが聞こえた。
「セレイラ?」
「リーツ!」
 曲がり角の向こうから、白衣を翻してやってきたのはセレイラだった。ふわりと揺れる胡桃色の髪を背へと流し、彼女は彼の前で立ち止まる。
 その澄んだ声はいつもと変わらず。しかし茶色い瞳はいまだ醒めていた。二十歳の誕生日を迎えますます大人っぽくなったのだが、こういうところは昔と変わらない。感情を隠すのが下手だ。手をひらひらさせる彼を見て、彼女はわずかに顔をしかめた。
「一人で勝手に行かないでって、私いつも言ってたでしょう? あなたの部屋に行ってもいなかったから、ずいぶんと探したのよ」
 不機嫌なのを隠すことなく、彼女は彼の手から鍵を奪い取った。背が高い彼女の顔は彼のほぼ真横にあるのだが、すぐに背を向けられたため表情は陰って見えない。微笑んでいないことだけを彼は祈った。その方が恐ろしいことは経験済みだ。
「悪かったよ、待たせたらまずいと思って」
「またどこかで寝てたんでしょう? リーツったら仕方ないわね」
 これ以上言葉を重ねても無駄か。適当に相槌を打つと、彼は扉の傍に掛かっていたコートを二つ手に取った。見目よりも軽さよりも暖かさを優先したもので、ずっしりとした重さが手首にかかる。彼はそのうち一方を彼女の方へと突き出し、極力感情を出さずに言った。
「悪かったよ謝る。だからほら、さっさと済ませよう」
 仲直りするよりも、早く仕事を終わらせた方がいい。そう判断して何とか笑顔を作ると、振り向いた彼女は一度片眉を跳ね上げた。しかしそれでも反論する気はないのか、差し出されたコートを素直に受け取る。もこもこのそれを重そうに羽織ると、彼女は手にした鍵を鍵穴へと挿した。
 やはり中身は変わっていない。そう心中で呟くと同時に、彼は苦笑を飲み込んだ。昔と変わらないのは彼自身も同じだ。こうやってくすぶりながらも面倒だからと口にしないのは、小さい頃からの癖だった。
 コートのポケットから手袋を取り出した二人は、静かにドームの外へと出た。扉を閉めるとそこは凍てつく零下の世界。重たげな雲で空はろくに見えず、その隙間から差し込む光も弱々しい。強い風がすすけた大地を撫で、あちこちで砂煙を巻き起こしていた。
 しかし文句を言ってもいられない。まずはドームに沿っての点検だ。二人は言葉を交わすことなく、黙々と歩き続けた。強風のため刺々しい静寂に襲われずにすむのが、せめてもの救いだろうか。だがこんなことは早く終わらせるに超したことがない。二重の意味で居づらい空間に長居は無用だった。
 歩き始めてどれくらい経っただろうか? 風の唸り声が不意に止み、砂煙が落ち着いた。彼はすくめていた首を伸ばし、視界を覆わんとしていた長い前髪を脇へと避ける。このもこもことした手袋の扱いにも慣れたものだった。
 そこで彼はようやく、足音が減っていることに気がついた。すぐ後ろにあったはずの彼女の気配が、これっぽっちも感じられない。慌てて振り返ると、ずいぶんと後ろの方で彼女は立ち止まっていた。緩やかな風になびく胡桃色の髪が、荒廃した大地の中で踊っているかのように見える。
「セレイラ?」
 文句を言いかけた彼は、すぐさまそれを飲み込んだ。妙だ。彼女は呆然とした様子で、ドームとは反対側――荒野の先を見つめていた。そちらには何もないというのに。
「おい、セレイラ」
 もう一度呼びかけながら、彼は彼女の方へと走り寄った。するとそれに気づいたのか振り返った彼女は、表情を変えずに荒れ地へとゆっくり指先を向ける。
「リーツ、あれ」
 その動きに導かれるように、彼は双眸をそちらへと向けた。そして立ち止まり、目を凝らした。寝不足による見間違いだろうか? また疲労で霞んでいるのだろうか? そう思いながらも数度瞬きをし、それが消えないことを確認して彼は息を呑む。
 そこに何かがあった。干からびた大地しかないはずの場所に、白っぽい物が見えた。この距離で、しかも肉眼でもはっきり確認できるというのは異常だ。巻き起こる砂煙を物ともせず、それは堂々と存在していた。大きさは……少なくとも第四研究所くらいはあるだろうか。
「な、何だよあれ――」
「行ってみましょう」
 動揺する彼の横を、彼女は擦り抜けていった。慌てた彼は呼び止めようと手を伸ばしたが、彼女のコートを掴むこともできない。確かに放っておくわけにはいかない。しかしそれよりも先に報告すべきではないか? そう思うものの彼女を置いていくわけにもいかず、彼は急いで彼女を追いかけた。
「おい、セレイラ。先に報告した方がいいんじゃ」
「何か白い物がありましたとでも言うつもり? ちゃんと見もせず?」
 追いついた彼は説得を試みるが、彼女を止めることは困難だった。記憶を辿ってみても、彼が彼女を止められたためしがない。いつも押し切られてばかりだ。
 そのまましばらく歩き続けると、二人はようやくその白い物体の近くまで辿り着いた。手をかざして砂煙から顔を守りつつ、彼はその巨大な姿を見上げる。
「これは……」
 それは宇宙船のようだった。なだらかな流線型を描く外形は美しく、幾度となく見た宇宙船とは何かが違う。しかもその所々には砲門のようなものが取り付けられていた。ただの貨物船ではなく戦艦といった風だ。宇宙戦艦など彼は実際に見たことがないが。
「宇宙船、ね」
 彼女の静かな声が風に運ばれていく。その宇宙船はどうやら着陸に失敗したらしく、わずかに傾きながら少しだけ大地の中に埋まっていた。宇宙船の周囲だけ、地面が所々ひび割れている。固い大地のはずだが、その重量には敵わなかったのだろう。
 しかしそれ以上に妙な点があった。これだけの物が落ちてきたのなら、それなりの衝撃があったはずだ。だがそんな揺れは感じられなかったし、研究所でも異変を感知している様子はなかった。全てがいつもと変わらなかった。まるで以前からそこにあったかのように、宇宙船はただ静かに埋まっている。
「こんな物がどうして」
 彼にはただ声を漏らすことしかできなかった。けれども彼女は違った。興味深そうに宇宙船を見つめていたと思ったら、おもむろにその周囲を歩き始めた。何も言わずに進む彼女を、彼はまた追いかける。
「おい、セレイラっ」
 名前を呼んでも止まる素振りもない。ウェーブした髪を揺らしながら、彼女は颯爽と歩いていた。いつだったかもこんなことがあったと思い返し、彼は苦笑いを浮かべる。彼女の行動力は頼もしくもあるが、こういう場合には困りものだ。
 ずんずんと進んでいた彼女は、あるところまで行くと急に立ち止まった。声を上げるわけでもなく、後ずさるわけでもなく、その双眸はじっと白い船体の方へと向けられている。傍へと寄れば、理由はすぐにわかった。彼女の視線が向けられた方、そこには黒い空間がぽっかりと口を開けている。
「扉が開いてるわ」
 彼女は淡々と言った。その通りだった。そこには半分ほど埋まりながらも、確かに入り口だとわかるものが存在していた。その先は闇のように暗く、中は見えない。明かりの類はないようだった。
「ま、まさかセレイラ――」
「もちろん入るわよ。もしかしたら生存者がいるかもしれないんだから」
 彼の危惧は的中し、彼女は毅然とそう言い放った。その可能性は考えていなかった。確かに無人――つまり自動運転可能な宇宙船など、もうこの世にはほとんど残っていない。遙か彼方の裕福な星にはあるかもしれないが、それもわずかなはずだった。とはいえこの様子では、中にいる者が無事だとも思えないが。
「おいセレイラ、でもうかつなことは」
 だが中にいるのが善人とも限らなかった。ここ最近は周囲の星々の対立も激しいと聞く。いくらこの惑星が中立とはいえ、安全が保証されているわけではなかった。先日も若手研究者が、隣の星でトラブルに巻き込まればかりだ。命の危険すらあったという話だから、昔のように呑気にはしていられない。
 しかし彼の忠告など聞く耳持たずと言わんばかりに、彼女は背をかがめて扉の中を覗き込んだ。少しは何か見えるのだろうか? しばしその状態で黙り込んだ後、彼女は恐る恐る足を伸ばす。そして、跳んだ。
「おい!?」
 声を掛けるも時既に遅く、彼女の姿は瞬く間に暗闇へと消えていった。大きく舌打ちして彼は足を踏みならす。彼女の行動力を甘く見ていた。
「ったく!」
 こうなる予感は薄々あったし、止められる自信も正直無かった。そのことを自覚して彼は歯噛みする。わかっていてついてきたのだからある意味同罪だ。仕方なく彼も彼女を追い、濃い闇へと身を投じた。
 かなりの衝撃を覚悟したが、床までの距離は大したことがなかった。膝をついて着地した彼は、壁に手を添えながら立ち上がる。靴が床を擦る音が、まるで自分のものではないかのように思えた。そこに彼女の足音が混じり、妙な音色を奏でる。
 宇宙船の中は薄闇だった。目が慣れてくればある程度は何があるのかわかり、躓く心配はなさそうだった。何度か瞬きをした彼は、ゆっくりと辺りを見回す。
 そこには驚くほど何もなかった。扉の傍だというのに、安全装置の類も置かれていなかった。床も壁も平らで、よく磨かれているのかわずかに光沢がある。そのせいか全体としては、何とも言い難い不思議な雰囲気を醸し出していた。彼が出入りする研究所はもちろん、その他の設備とも異なる空気だ。
 よく見ると二人が入ってきた扉のある場所は、宇宙船の先頭部分に近いようだった。そこから左右へと廊下が延びているが、右の方はすぐ終わっている。造りはそんなに複雑ではなさそうで、迷うこともないだろう。
 彼が左の方を見やると、思っていたより近くに彼女がいた。熱心に壁や床を見つめ、何か考えているようだ。甲高い靴音が止むと、彼女の呼吸する音が鼓膜を震わせた。ずいぶんと落ち着かない様子だ。彼女は再度周りを観察すると、壁をそっと撫でる。
「最近の宇宙船じゃあないわね」
 歓喜を滲ませた声が静寂に染み渡った。こういった物は彼の専門外だが、彼女はそうでもないらしい。宇宙船など研究していただろうかと彼が首を傾げると、彼女は不意に口角を上げた。
「こっちが先頭部分ってところかしらね。ってことは操縦室も、たぶんこっちよね」
 右手――つまり彼の方を見た彼女は、壁から手を離すとゆっくり歩き始めた。慌てて彼は彼女の肩を掴んだが、それもすぐに振り払われてしまう。
「セレイラ――」
「黙って」
 廊下の突き当たりはすぐそこだった。ただの壁にも見えたのだが、どうやら扉になっているらしい。ということはその先が操縦室だろうか? 人間がいる気配はしないが。
 のろのろと彼もそちらへ近づくと、わざわざ手伝う必要もなかったらしく、非力な彼女の力だけで静かに扉が開き始めた。床を擦る音もしない。けれども途中で、彼女の手はぴたりと止まった。
 誰かいたのか? 一歩踏み出して彼女の斜め後ろに立つと、彼はその肩越しに中を覗き込んだ。それとほぼ同時に、彼女は怖々と言葉を舌に乗せた。
「こ、子ども?」
 部屋の中に彼女の声が反響する。二人の目の前に倒れていたのは、まだ幼い顔をした少年だった。仰向けのまま微動だにせず、固く目を瞑っている。
「生きてるのか?」
 彼が恐る恐る口にした言葉も、広い室内に響く。中へと足を踏み入れた彼女は、少年の傍らに片膝をついた。
「息はしてるわね」
 胸元へと耳を寄せて、彼女は軽く相槌を打つ。どうやら最悪の状況だけは逃れたらしい。安堵の息を漏らし、彼も彼女の横でしゃがみ込んだ。土で汚れた服を纏った少年の近くには、ぼろぼろの帽子が落ちている。倒れた際にぬげたのだろうか。緩くうねる黒髪には所々砂がついていた。
「傷は?」
「見たところなさそうよ。でも頭を打ってるかも」
 彼が尋ねると、彼女はほんの少し首を横に振った。それもそうだ、彼女は医者でも何でもない。しかも子ども相手となれば軽々しく判断はできないだろう。もし見えないところに出血でもあれば大変だ。
「どうする?」
「運ぶしかないでしょう。このまま放っておくわけにもいかないし」
 彼女の横顔も険しかった。この少年と宇宙船にどういう繋がりがあるのか、それはわからない。だがこの少年に万が一のことがあればどうなってしまうのか、考えたくもないことだった。彼は眉根を寄せると、乾いた唇を開く。
「まさか、首とか折ってないよな?」
「そんなの見ただけじゃあわからないわよ。だからリーツ、できるだけ動かさずに運んで」
「おいおい、無茶言うなよ」
「私が頭と首を支えてるから、リーツ背負って」
 彼女の決断は早かった。少年の首の下に手を入れると、彼に目配せをしてくる。どうやら彼に判断は委ねられていないらしい。仕方なく背中を向けると、すぐさまそこに重みが加わった。コートのせいで背負いにくい。またいくら子どもとはいえ、やはり気を失っていると重かった。
 落とさないようにと気をつけながら、彼はよろよろと立ち上がった。ここ最近は論文のせいで運動不足だ。そして何より問題なのは、この状態であの扉から出られるかどうかだ。一人ではないから何とかなるとは思うが、あまり自信はない。彼は横に並んだ彼女を見やった。
「医務室へ連れて行けばいいのか?」
「……とりあえずは私の部屋に運んで」
 何気なく口にした彼の問いかけに、思わぬ答えが返ってきた。彼は眼を見開いて左へと頭を傾ける。どういうつもりなのか? 医務室にならしっかりとしたベッドもあるのに、彼女の部屋を選ぶなんて。
「いいから」
「何でだよ。医務室に寝かせて、医者を呼んでくればいいだろう?」
「この時期、あそこは具合悪くなった研究者だらけじゃない。やけになって酒飲んで酔いつぶれた人もいるし」
 疑問をそのまま口に出すと、彼女はもっともらしい答えを返してきた。なるほど、確かにこの時期あの医務室は混沌とした状態となっている。普段は誰も使わないベッドが占領され、部屋には妙な臭いが充満していた。あそこにこの少年を連れて行くのは少し気が引ける。
「医者を呼ぶならどこだっていいでしょう? 私の部屋には簡易ベッドがあるから」
「まあ、そこまで言うなら」
 彼の部屋は資料と本だらけで、少年を横にするような場所もない。やはり彼女の部屋が適当か。背中を気にしつつ彼が頷くと、ようやく笑顔を浮かべた彼女は先に歩き出した。もこもこのコートの背で、ウェーブした髪が跳ねる。
「私が先に上ってその子を受け取るから」
「おう、助かる」
「絶対に落とさないでね」
 扉へと向かう彼女の後を、彼はゆっくりと追った。少年を揺らさないよう運ぶのに、かなり気を遣った。

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