マジシャンのいる部屋9  勘違い編

 どさまわりから帰ってきても、クレがやってこない日が増えた。最近のクレは実力が認められてきてるみたいで、それは嬉しいんだけれど少しずつ忙しくなってしまった。私は一人の時間を過ごすことが多くなり、その時間は大抵宿題にあてられている。
 昨日も結局、クレは来なかった。もう何日連続で来てないんだろう? 私は数えることも止めて、昨夜はつい牧恵ちゃんと長電話までしてしまった。牧恵ちゃんってば話が長くてなかなか切らないんだもん。今日は寝不足だよ。
「あーあ、授業中寝ないようにしないと」
 朝ご飯の後片づけをして、私は鏡の中の自分を覗き込んだ。眠そうな顔は可愛くない。顔に関しては可もなく不可もなくと思っているけれど、こういう時はどちらかというと不可の方だ。クレが羨ましくなる。
「まークレにとっては嬉しくないんだろうけど」
 口から飛び出してくるのはまたクレのこと。早々と両親が出かけた家の中では、私の声もよく響いた。不機嫌な声色だ。これもたぶん睡眠不足のせいだろう。
 ひどい顔をごまかそうと髪型を色々弄ってみたけれど、どれも似合っている気がしなかった。仕方なく適当に両耳の後ろで結び、私は小さくため息をつく。クレがどさまわりに行ってる時よりも寂しいなんて、何だか変な気分だった。あの時は頑張れたのに、何故か最近は寂しくて仕方がない。
「いつ来るかわからないからかなあ」
 まるで昔に戻ってしまったみたいだと思うと、ひどく落ち込んでくる。少しは成長していると思ったのに、変わってなかったのだと思い知らされたようだ。自信がなかったクレはどんどん実力を発揮してきているのに、私は駄目なままなみたいで。
「あーいけない、後ろ向きはよくないよね」
 私は何度か相槌を打つと、鞄を取りに部屋へと向かった。クレがなかなか来ないのも、勉強のための時間を取ってくれてると思えばいいのだ。何も全てが悪い方に傾いているわけじゃあない。昨日だって宿題はばっちり済ませたし。
「どうせだから、いい高校に受かってクレ驚かせないとね」
 私は鞄を手にして、無理矢理に微笑んだ。微笑んでいれば少しは強くなれるような、そんな気がしていた。



 けれどもその日私が学校を出たのは、もう日が落ちかけた時だった。辺りは夕日色に染められ、一部の空はもう深い紫にまでなっている。風も冷たく、春なのに肌寒かった。
「うーっ、寒い……」
 私は両腕を抱えながら真っ直ぐに家を目指した。それもこれも全部、機嫌の悪いあの英語の先生のせいだ。
 たぶん彼氏と喧嘩でもしたんだろう。今日はすごく不機嫌で、危険な日だった。それなのに、まさかせっかくやった宿題を忘れちゃうなんて、私は馬鹿だ。やっぱり昨日は長電話なんてするんじゃなかった。頑張ったプリントはたぶん、机の上に誇らしげに載っているだろう。
「風邪ひいたらどうしてくれるのさー」
 ぼやきながら歩く道のりは、いつもよりも長く感じる。精神的にも疲れ切っているせいか、体中が重かった。
 宿題を忘れた私はまずお小言をくらい、それから山のような宿題を追加されてしまった。英語はあんまり得意じゃないから、昨日は一生懸命頑張ったというのに。なのに先生がいる教室でプリントとにらめっこなんてあんまりだ。頭がうまく回らなくて、結局こんなに時間がかかってしまった。
「明日もまた英語あるのに。予習してないのに」
 でも明日の予習こそ、しっかりやらないとまずいだろう。でないとまた先生に目をつけられてしまう。そうなったらこれからが悲惨だ。
 私は最悪な一年を想像して沈み込んだ。寝不足なせいかどうも今日は悪い発想ばかりが浮かんでくる。本当はもっと楽しいことを考えたいのになあ。漏れるのはため息ばかりだ。
 楽しいことと言ったら、まず浮かぶのは美味しい物だろう。だけどこれから帰って何かを作ることを考えると、私はさらに憂鬱な気分になった。これだけ疲れきってしまったら、何も作る気にならない。久しぶりにコンビニ弁当だろうか? でも買いに行くとしても、家に帰ってお金を取ってこなきゃいけないけれど。
「みやちゃん!」
 そんなことを考えながら歩いていると、前方から聞き慣れた声がした。私をこう呼ぶ人は、今のところ一人しかいない。慌てて顔を上げると、やっぱりそこにいたのはクレだった。
「クレ!?」
 道端にクレがいる。いつも通りの黒タキシードにシルクハット、杖を持ったクレが立っている。それが信じられなくて、私は何度も瞬きを繰り返した。
 けれどもそんな私にお構いなく、クレはどんどん近づいてくる。私はぼーっとしたままそんなクレを見上げた。人気の少ない道で良かったなあと、そんなことも考えた。だってクレのこの恰好はやっぱり怪しいから。
「みやちゃん」
「クレ?」
「家に行ってもいないから、ずっと捜してたんだよ」
「え?」
 クレの言葉に、私は思いきり首を傾げた。まさか今日に限ってクレが来るなんて、私はこれっぽっちも考えてなかった。しかもクレが私を捜し回るなんて、夢にも思わなかった。
「いつも帰ってる時間なのにいないから。もし、変な事件に巻き込まれてたらって思って……」
 仮面越しに見える、クレの心配そうな瞳。それは今まで見たこともないくらい辛そうで、私は何と言っていいかわからなくなった。だって私はただずっと学校にいただけで、心配されるようなことは何もなかったんだから。
「それとも……僕がなかなか会いに行けなかったから、避けられちゃったとか」
 だけどさらに続けられたクレの言葉に、私はびっくりして息が詰まりそうになった。そんな発想が浮かぶわけがない。寂しいとは思っても、それでクレを避けるようなことをするはずがないのだ。私は慌てて首を横に振った。これだけは否定しないと。
「そそそそんなわけないよ! ただその、宿題忘れて先生に意地悪されただけで……」
 どうしてクレがこんなところで自信を失うのか、よくわからなかった。せっかくお師匠さんの前でもマジックを成功させられるようになったのに、まるで前のクレに戻ったみたいだ。
「ほ、本当に?」
 そう問いかけてくるクレの視線が、私の鞄に向けられた。どうやらこれが安心の材料になってくれたみたいだ。クレの瞳に安堵の色が表れ始める。それに私、まだ制服だし。
「うん、本当」
 クレを一人で放っておけないと、そう思ったのは久しぶりのことだった。こんなに頼りになって優しくていい人なのに、だけどちょっと危うげで。そして繊細で。
 私も弱いけれど、それはクレも同じなんだ。そう考えると安心すると同時に、一緒に強くなればいいんじゃないかと思った。こんなこと口にしたら、クレは困った顔をするかもしれないけれど。
「私だって、ずっとクレが来てくれるの待ってたんだから」
 私はそう答えると、満面の笑みを浮かべた。クレが安心してくれるように、疑わないように。私のことを、信じてくれるように。するとクレの手が伸びてきて、私の頬にそっと触れた。手袋越しにもわかる温かい手だ。でもその感触がくすぐったくて、私は少し首をすくめる。
「……みやちゃん」
「んー何?」
「いや、何でもない。じゃあ帰ってご飯食べよう? 今日はみやちゃんの好きな物にするから」
「やったー! 私クレの作る物なら何でも好きだよ。でも、今日はパスタがいいなあ」
 私が喜んでその場で飛び跳ねると、クレは嬉しそうに微笑みかけてきた。こういう表情の方が好きだ。辛そうな顔を見ていると、私も何だか胸が痛くなる。だからやっぱりクレには笑っていて欲しかった。
「わかった、パスタね」
 うなずくクレの髪を、冷たい風が揺らした。でもクレの瞳は温かかった。私は大きく首を縦に振って、手にしていた鞄を抱きしめる。
 今日一日の疲れも寝不足も、もうどこかへ飛んでいってしまったみたいだった。

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