誰がために春は来る 第二章

第五話 知らせ

 お昼時を迎えた宮殿内は、それまでとは違う人の流れに満たされていた。仕事で行き交っていた人々も食堂へ向かい、またプレートに食事をのせた何人かがそれらに逆らって外へと出ていく。
「おかしいなあ」
 そんな中、流れを掻き乱していたのはありかだった。外へ出るわけでもなく食堂へ行くわけでもなく、廊下を歩き回りながら首を捻っている。迷惑がる人々に謝りつつも、彼女はそれを止めようとはしなかった。
「乱雲、今日もいないわ」
 ぼやきながら彼女は顔を曇らせた。ここしばらく、乱雲の姿を見かけていなかった。彼女自身もあまり体調がよくなくて、図書庫と食堂、それから自室の行き来のみだったせいもあるだろう。だがそれにしてもお昼時に食堂へ来ないというのは珍しいことだった。たまたま行き違った可能性はあるが、しかしそれが何日も続くようならやはりおかしい。
「乱雲も調子が悪いのかしら? それとも長期の調査? ……でもそんな話してなかったし」
 彼の気を探ってみると、それは確かに宮殿内に存在している。ここは気の混じり合いが激しく注意しなければ見つけられないが、彼の気であれば何とか探し出すことができた。宮殿の中にいることは確かだ。
「いるはずなのに」
 彼女はもう一度辺りを見回した。白い壁の廊下はどこまでも続いていて、その脇にはずらりと扉が並んでいる。そのどれもが小さな会議室だった。
 そこから時折人が出てきては、階段の方へと向かって歩いていく。また逆に戻ってきた人が、扉の中へと無言で身を滑り込ませることもあった。今は特に巨大結界の穴のことで、皆張りつめている。敵意にも似た空気が彼女の肌を刺激した。
「みんな忙しいのよね」
 彼女は自らを慰めるよう、そう囁いた。ピリピリした空気も、乱雲が見あたらないのも、全て忙しいせいに違いない。
 何故巨大結界にほころびが生じたのか。どうして今生じたのか。考えても意味のないことを考えそうになり、彼女は首を横に振った。答えなど出るはずがない。少なくとも下の下にいる彼女が知りうる情報だけでは、答えは手繰り寄せられない。
「あれ?」
 だがそこでおもむろに振り返ったありかは、ずっと探していた姿をそこに見つけた。彼女が通り過ぎた扉の一つから顔を出したのは乱雲だった。疲れの滲んだ横顔で扉に手をかけている。
「乱雲――」
 すぐに彼女は声をかけようとした。が、彼は彼女を一瞬見ただけで何も言わず、すぐに目を逸らしてほんの少し俯いた。彼女は伸ばしかけた手を固まらせる。
「え?」
 視線を逸らされた? 信じがたいと、彼女は動きを凍らせた。すると目を疑っている間に、彼はそのまま頭を引っ込めて扉を閉めてしまった。強く鳴った音が、騒々しい廊下の中でも彼女の耳に強く残る。その余韻は階下から聞こえる喧騒に混じって溶けていった。
「ら、乱雲?」
 彼女は再度その名を呟いた。そして瞬きを繰り返し、今一度彼の顔を思い描き、起こった事実を整理しようと必死に努めた。自然と鼓動が速くなっている。
「今、確かにこっちを見たわよね?」
 自分の見間違いではないかと、彼女は何度も確認した。だが見慣れた顔を間違えるわけもない。それに確かに彼は彼女のことを見たのだ。見つめて、それから目を逸らして扉を閉めた。気のせいではない。
「乱雲だったわよね? 人違いじゃないわよね? そうよね、私は彼の気を目指して来たんだもの。こんな所にいるはずないって思ったけれど」
 混乱した頭でも、彼女はとにかく論理的に考えようとした。今見たのは彼だったのかどうか。彼ならば何故彼女を視界に入れながら、そのまま戻ってしまったのか。しかし考えれば考える程嫌な方へと思考は進み、仕舞いには信じがたい結論まで辿り着く。
「私、ひょっとして……」
 震えそうになる拳を胸に押し当て、彼女は息を呑んだ。頭がぐらぐらして真っ直ぐ立っているのか不安になる。それでも彼女はその場に立ちつくしたまま、閉ざされた扉の向こうを凝視しようと眼を見開いた。
「避けられてる?」
 今までずっと会えなかったのも、探して見つからなかったのも避けられていたからだろうか? 最悪の可能性に行き着き、彼女は握った拳に力を込めた。汗ばんだ手のひらが、妙に冷たく感じられた。



 昼休みが終わり図書庫へと戻っても、仕事ははかどらなかった。やらなければという思いはあるのに、すぐに意識は乱雲の方へと向かってしまう。
「どうしよう」
 机の上に乱雑に並べられた書類を見下ろし、ありかは嘆息した。仕事を溜め込めば後が辛いのはわかっているが、それでも目は何度も同じ行を往復してしまう。文字が頭の中を素通りしているようで、内容まできちんと入ってこない。
「乱雲……私のこと嫌いになったのかしら? でもそれまで特に変わったところなんてなかったのに。あ、待たせ過ぎちゃったとか?」
 彼女は椅子に腰掛けながらぶつぶつと独り言を口にし続けた。すると自分の声に、言葉に、憂鬱な気分はどんどん深まっていく。口調も徐々に重くなっていった。
「そうよね、ずいぶん待たせちゃったものね。お母様のことがあるとはいえ……。さすがの乱雲も怒ったのかな?」
 重なり合った紙をぼんやりと眺めながらありかは頬杖をついた。思考はどこまでも悪い方へと傾いていき、泣きたくなってくる。彼女はそれを振り払うよう、勢いよく首を横に振った。
「いや、違うわ。乱雲はそんな風に突然怒るような人じゃない。怒るなら何かきっかけがないと。でもきっかけ……きっかけって何かあった?」
 けれどもいくら考えても答えは出てこなかった。彼と会えなくなってから十日程だが、その辺りで何か特別なことがあったわけでもない。いつも通り仕事をこなし、いつも通り時間の隙間を見つけて会っていた。それなのに突然態度を変えるなんておかしい。
「駄目、いくら考えてもわからないわ」
 彼女は机の上に突っ伏した。やや冷たくなったそれが頬に触れて気持ちいい。少しだけ頭の霧が晴れた気がして、彼女はそっと瞳を閉じた。
 昼間見た乱雲は別人だったのだろうか。それとも彼は彼女の存在に気づかずに、ただ用事を思い出して部屋へ戻っただけなのだろうか。目を閉じたまま、彼女は必死に昼間の光景を思い出そうとする。
「そもそもあんな所に乱雲がいるのがおかしいのよね」
 瞼の裏に乱雲の横顔を描き、彼女は呟いた。あの辺りには小さな会議室が並んでいるが、外回りの仕事を主に行う彼はほとんど立ち入ったことがないはずだ。彼女だってほとんど利用しない。移住者試験のための勉強部屋や試験部屋となることはあったが、普段はもっと上の者たちが内密な話をするのに使っていた。もっとも利用頻度は少ないようだが。
「最近変なことばかり起きてるわよね」
 そっと瞼を持ち上げて、彼女は息を吐き出した。薄ぼんやりとした机の面が目の前に広がっている。その上に刻まれた傷を、彼女はゆっくりと指先でなぞった。
 リシヤが消滅し、巨大結界にほころびが生まれる。何故こうも異変が続くのか不思議だった。それなのに乱雲までが態度を変えてしまうなんて、これ以上混乱しようないくらいに途方に暮れてしまう。
「あー駄目ね、こんなこと考え続けていちゃ」
 けれどもいつまでもこうしてはいられないと、彼女は勢いよく上体を起こした。頬にかかった髪を払いのけると、散らばったままだった書類を一カ所に集める。そしてそれらを手にして立ち上がった。椅子が大きな音を立てる。
「たまには外で仕事しましょう。それなら気分転換になるわよね」
 彼女はそう独りごちると扉まで寄り、あいている方の手で壁際のパネルに軽く触れた。音を立てずに明かりが消え、唯一のそれを失った部屋は暗闇に包まれる。それでも迷うことなく取っ手を探り当てると、彼女は部屋を出ていった。薄暗い廊下はどことなく辛気くさいが、これを厳かと称する者がいると聞くから驚きだ。おそらく普段利用しない人の言葉だろう。
「人を近づけさせない雰囲気が好きなのよね、上は」
 苦笑しながら彼女は進む。乾いた足音は耳をそばだてても一つしかなく、それが壊れかけた秒針のごとくゆっくり刻まれていた。
 それでも歩き続ければ大きな扉が見えてくるわけで。図書庫と外の廊下を区切る扉を、彼女は押し開けようと手に力を込めた。重厚なそれは体いっぱい使わなければ容易には開かない。しかもそれが普段よりも辛く感じられて、思わず彼女は失笑した。これもおそらく気分のせいなのだろう。やっかいだなと心底思う。
「ありかさん!」
 音を立てないよう扉をゆっくり閉めた途端、背後から歓喜に満ちた声が聞こえてきた。慌てて振り返ると、そこには先日見かけたばかりの二人の姿がある。互いの袖を引っ張り合いながら、シャープとリューが佇んでいた。しかしぱっと輝いたシャープの瞳とは対照的に、リューの眼差しは重い空気をはらんでいる。ありかは小首を傾げてそんな二人を見比べた。
「どうかしたの? 二人とも」
「私はすぐありかさんに知らせた方がいいと思ったんだけど、リューが勝手に入っちゃ駄目だって」
「だってここは、普通は子どもが入っちゃ駄目なところでしょう?」
「普通じゃないからいいの、今は。そういうところリューは固いんだから」
 驚いて尋ねても、二人から得られた情報は少なかった。とりあえず二人がこの扉を開けるか否かでもめていたことはわかる。そして何か知らせようとしていることも。ありかは二人へと一歩近づいた。
「確かに普段は許可なく入っちゃいけないところだけど。それで二人は、何を知らせに来てくれたの?」
 彼女が軽く上体を傾け視線を合わせると、それが先だったと言わんばかりにシャープがポンと手を叩いた。リューは何故か泣きそうな顔でそんなシャープへと一瞥をくれ、それでも反論できずに唇を噛んでいる。ありかはさらに首を捻った。
「私たちさっき聞いちゃったの。リョーダさんたちが話してるところ」
「たまたまなんです、たまたま。立ち聞きしようとしたわけじゃないんです」
「そんなこと今はどうだっていいの! それでね、たぶんありかさんは知らないことだろうから教えなきゃって思って」
 シャープはまくし立てるようにそう言ったが、リューはまだおどおどしたままだった。リョーダと聞いてありかは記憶を掘り起こす。それは確かリューの父親の名前だったはずだ。突然神技隊を選ぶ役回りに選ばれて、忙しくなったと聞いていた。
「乱雲さんが選ばれちゃったの」
「……え?」
「神技隊の、リーダーに。まだ公表してないみたいだったけど、ありかさんには先に知らせたくて」
 しかしその事実を聞いた途端、それまでまっとうに働いていたはずのありかの思考は完全に停止した。神技隊という名前が渦を描き、選ばれたという単語がその周囲をぐるぐる回り始める。頭の中が真っ白というよりも暗闇に突き落とされたようで、彼女は瞬きを繰り返した。目を閉じ、そして開ければ光ある世界へ行けるような気がして、ただただ何度も瞳を瞬かせる。
「大丈夫? ありかさん」
「だからシャープ、他人に勝手に言っちゃ駄目だって」
「他人じゃないよ! だってありかさんは乱雲さんの恋人でしょう? 知らないままでいいはずがないじゃない」
 目の前でシャープとリューが言い合う様も、ありかの視界には入らなかった。体温が一気に下がったようで、震えと気怠さと目眩が立て続けに襲ってくる。それでも背後の扉に背を預けて、倒れるのだけはどうにか堪えることができた。
 乱雲が神技隊に選ばれた。口の中でその単語を繰り返し、彼女は書類のない方の手を胸に当てた。そんな話は嘘だと突っぱねられたら楽だろうに、前にいるのが子どもたちではそれもできない。だから落ち着くことだけを考え、彼女は深呼吸を繰り返す。
「え? でも恋人がいる人は神技隊に選んでないってお父様が……」
「きっと間違ったのよっ! ね、ありかさん、言いにいこう? 今だったらまだ間に合うかもしれないよ。ねー、だから早くっ」
 するとシャープの手がありかの袖へと伸びてきた。曇り空を映したような灰色の上着が、細い手によって強く引っ張られる。シャープの気持ちは嬉しい。二人の言葉が本当なら、おそらくありかのことは想定に入っていなかったのだろう。短時間の調査から漏れたに違いない。大っぴらにしていなかったから。
「ありがとうシャープ。でもいいわ、一人で行くから」
「え? でも」
「あなたたちには迷惑かけられないのよ。話くらい私でできるから」
 けれどもありかはそう告げてシャープの手をそっと引き離した。驚いた緋色の双眸がありかを見上げてくる。ありかはうっすら微笑んで、そんなシャープとリューの顔を見比べた。
「心配しないで」
 そしてそう言い残すと、ありかは二人を置いて歩き出した。書類を置いてくる暇も惜しい。とにかく一刻も早く乱雲に会いたくて、彼女は歩を速めた。長いスカートがばさばさと音を立てる。
「どうして」
 自然と声が震えた。背後から二人の驚きの視線が注がれているが、それすらも今は気にならない。彼女はぐっと歯を食いしばった。
「どうして何も言ってくれないのよ、乱雲」
 独りごちる声は、弱々しかった。

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