誰がために春は来る 第一章

第四話 呼ばれた名前

 実力試験が無事に終了して三日。ありかの教育係としての仕事は次第に減ってきていた。乱雲が外回りの仕事を始めたからだ。まだ合格して間もないというのに、今朝で四つ目の仕事だったという。
 図書庫へと向かって歩きながら、ありかはため息を吐いた。茜色のスカートがはためいて音を立てるが、それすらも今は煩わしく感じられる。とにかく、気持ちが落ち着かなくてどうしようもなかった。苛立ちと焦燥感が胸の中を渦巻いている。
「ミケルダさんがいつも通りの試験をしてくれれば、本気にならなければ乱雲の実力がばれなかったのに。こんなに仕事が回ってくるなんて……試験勉強も何もできないじゃない」
 ぶつぶつと漏れるのは文句ばかりだった。移住者試験まであと二週間を切ってしまったのに、乱雲の勉強は進んでいない。このままでは彼は落ちてしまうかもしれない。だがそれだけは何としても阻止したかった。彼がこれ以上落ち込む姿は見たくない。
「昨日だって一時間も会ってないのよ。今日だって午前中は仕事で潰れちゃったし。午後は私も忙しいのに……」
 続けて呟きながら、ふと自分の言葉に違和感を覚えて彼女は立ち止まった。その脇を迷惑そうな顔をした数人が通り過ぎていく。彼女は邪魔にならないようにと廊下の端に寄り、首を傾げた。
「会ってない、って言い方は何かおかしくない?」
 自らに問いかけてみても、その違和感の出所はわからない。眉根を寄せた彼女はまた大きく嘆息し、軽く首を横に振った。これもきっと苛立っているせいだろう。冷静に思考できない。
 そう、悪いことばかりではないはずだ。この刺々しい空気から解放されて彼は生き生きとしていた。時折横顔をちらりと見かけただけでもそれは明白だ。勉強している時とは打って変わって、自信に満ち溢れていた。きっと体を動かす方が好きなのだろう。
「それに、甥っ子さんのことを考えなくてすむしね」
 彼女はやおら視線を廊下の先へと向けた。早足で過ぎ去る強ばった顔の人々の合間を、時折小さな子どもが駆け抜けていく。午後の修行の時間が始まるからだ。幼い頃を思い出して彼女は口角を上げた。あの頃は強い者たちに、外回りへと出かける者たちに憧れたものだった。自分には向いていないとわかっていても、つい考えてしまう。
「ここだと、どうしても子どもを見かけちゃうものね。思い出してしまうものね」
 壁から背を離すと彼女はまた歩き始めた。宮殿生まれの子どもたちは数多くいる。そして不幸なことに乱雲が行き来する廊下は、彼らがよく通り抜けるところでもあった。修行室と勉強室、それを繋ぐ最短の経路がそこであるが故に。小さな男の子を見かける度に、彼は置いてきた甥を思い出したことだろう。辛かったに違いない。
「あ、急がなくちゃ」
 ふと見えた廊下の時計に目が行き、彼女は慌てた。午後の仕事が始まる時間だ。遅れたらまずいと速度を上げて、急ぐ人々の流れに彼女も乗る。
「ありか」
 しかし呼び止める声があり、彼女は再び立ち止まった。
「乱雲?」
 右手へと振り向き彼女は頬を緩めた。休憩用にと用意された廊下脇の広場、そこにある椅子に乱雲は腰掛けていた。彼は立ち上がって微笑むと軽く手を振ってくる。いつ見ても人好きのする朗らか笑顔だ。もっとも、滲み出る儚さは今も残っているが。
「どうしたの? 乱雲。こんなところで」
「実はこれからまた外に出なくちゃいけなくなって。集合場所がここなんだ」
「また外回りの仕事?」
 彼女は呆れ半分でため息を吐いた。今朝戻ってきたばかりなのに、もう次の仕事とは。それを命令する上も上だが、笑顔で引き受ける彼も彼だった。いや、実際下の者に拒否する権利はないのだから、どうしようもないのだが。
「今日のはちょっとひどいよな。でも疲れるけど仕方ないよ。上の命令は絶対、だろう?」
 彼はそう言って苦笑した。それは彼女の口癖であり、この宮殿で育った者の共通認識だ。理由を尋ねるな、逆らうな、疑問を差し挟んではいけない、と。ここに来て日が浅い彼でさえ、覚えてしまうほど聞いた言葉。
「そう、だけど――」
「だから我慢するしかないさ。任務地がヤマトでも」
 だが続く彼の言葉には苦いものが含まれていた。彼女ははっとして、彼の顔を凝視する。
 ヤマト。それは彼が生まれ育った自治区であり、逃げ出してきた場所だった。もちろん一言でヤマトと括っても、かなりの広さの土地を指す。知り合いに出くわす確率など微々たるものだ。だがそれでも彼の気持ちは重たいのだろう。会うかもしれないと考えるだけで『気』に表れるくらいに。
「乱雲……」
「ああ、大丈夫。他の人もいるし、向かうのはオレの家とは反対の方向だから」
 心配かけまいとしたのか、彼はぎこちなく破顔した。無理に笑うなと言いたくなるような眼差しで、手をひらひらとさせている。
「そんなことよりありか、時間大丈夫なのか?」
「え? あっ、いけない遅れるところだった! じゃあ乱雲、勉強は帰ってきてからね」
「ああ、よろしく頼むよ」
 上の命令は絶対。それは彼女とて同じことだ。仕事に遅れるようなことが繰り返されれば給料減も考えられる。最近教育係との両立で遅刻が多かった。今日もとなればまずいだろう。後ろ髪が引かれる思いだったが、彼女は廊下を急ぎ足で進んだ。何故だか今は、振り返ってはいけない気がした。



 書物の整理を終えたありかは、椅子から立ち上がった。窓さえあれば夕日が差し込む時間のはずだが、残念ながら図書庫にはない。こんな所に四六時中いたら普通は気も滅入るなどと考えながら、彼女は軽く伸びをする。
「ちょっと休憩」
 誰に告げるわけでもなくそう呟き、彼女は服を正した。図書庫は幾つかの部屋に分かれており、その一つ一つに担当者が配置されていた。彼女はその一人だ。決められた時間内に仕事を終わらせることができれば、ちょっと抜け出したところで文句を言われることはまずない。
 扉へ寄ると、彼女は壁際のパネルに手を置いた。音を立てずに電気が消えて、部屋の中は一気に暗闇と化す。だが彼女は慣れた仕草で取っ手を探り出し、厚い扉を開け放った。古書独特の匂いが少し薄らぐ。
 図書庫内の部屋を繋ぐ廊下は薄暗いが、もう仕事について何年も経つから迷うこともなかった。彼女はそこをゆっくりと歩き出す。乾いた靴音が狭い廊下に響いた。
 けれども、よくよく耳を澄ますと足音は一つではなかった。小さいが乱れた歩調で、誰かがこちらへと近づいてくるのがわかる。
「おかしいわね」
 彼女は眉をひそめた。この靴音は子どものものだ。しかし子どもがこの図書庫へ入ることをそう簡単に許されるわけがない。
 彼女が訝しげに思っているうちに、その主は目の前に現れた。廊下の前方、曲がり角に立ち止まったのは十歳くらいの少女だった。蜂蜜色の髪を頭の上で一つにくくった、快活そうな子どもだ。
「ひょっとして、あなたがありかさん?」
 少女は問いかけてきた。名前を知られていることにも聞かれたことにも戸惑いながら、それでも正直にありかは頷く。ごまかした方が良かっただろうかとも考えたが、そうさせない張りつめた空気を少女は纏っていた。緋色の瞳が燃えるようにありかを見つめている。何かを秘めた鋭い視線だ。
「私はシャープ。来て、早く。乱雲って人が呼んでる」
「乱雲、が……?」
「早く医務室に来て。お願いだから早く」
 息が荒いためだろう、言葉少なにシャープは語った。そしてすぐさま踵を返すと、もと来た道を駆け出していく。慌ててありかも走り出した。シャープとの距離はややあるが、相手はまだ子どもだ。すぐに追いつけるだろう。だが突如として湧き起こった焦燥感が、彼女の胸を締め付けていた。少女――シャープの放った言葉が、脳裏に焼き付いている。
「乱雲が呼んでる? 医務室で?」
 何かあったのだろうか? 良くない考えばかりが頭をよぎり、鼓動が速くなった。廊下を走るだなんて誰かに知られたら怒られるが、今はそれどころではない。徐々に、前方にあるシャープの姿が近づいてきた。蜂蜜色の髪が左右に揺れている。
 大きな扉の前で、シャープは立ち止まった。子どもには重すぎる重厚な扉だ。ありかは急いで駆け寄り、その取っ手を力一杯押した。それまで静けさに包まれていた空間にさざめきが広がっていく。隣に立つシャープが双眸を向けてきた。
「ありがとう」
「勝手に入ってきて、あなたは大丈夫なの?」
「大きな人の後ろをこっそりついてきたから」
「そう」
 巨大な扉を抜けるとそこは図書庫の外だ。明るい世界に目を細めながら二人は医務室へと向かって走り始める。長いスカートを疎ましく思いながらも、ありかは必死に駆けた。人々の視線も今なら気にならない。
「えっと、シャープだっけ? あなたは乱雲――」
「乱雲って人、外回りの仕事の途中で倒れかけちゃったみたいなの。過換気……とかだっけ? 起こして運ばれてきたの。さっきまでお母様が診てたんだけど、傍で聞いてたらあなたの名前を呼んでたから」
 尋ねようとありかが口を開くと、すぐさまシャープは簡単に説明してきた。思いもかけない言葉に、ありかは息を呑む。やはりヤマトで何かあったのだ。衝撃を受けるような何かが。あの時止めておけばよかったと、ありかは本気で後悔した。いや、止めても上の命令なのだからどうしようもなかったのだが。
「そうなの……」
「他の人に聞いたら、その人は教育係で今はたぶん図書庫にいるっていうからさー。すっごく探したんだよ。息切れするくらい」
 走りながらシャープは唇を尖らせた。図書庫はかなり広い。人を捜し回るとすればなおのことだ。ありかは相槌を打ちつつ廊下を駆け、階段を上った。医務室は三階だ。いつもなら何とも思わない距離が今は遠く感じられる。
「着いたっ」
 それでも走り続ければ医務室へと辿り着く。他の部屋とはやや距離を置いて存在するその扉を、ありかは静かに押し開けた。中から薬品独特の匂いが溢れ出してくる。するとありかの脇を通り抜けて、シャープが先に中へと入った。シャープは白い部屋の中をぐるりと見回し、それからありかの方を向いて首を傾げる。
「お母様いないみたい。乱雲さんはそこにいるけど」
 シャープはカーテンの奥を指さした。ありかは音を立てないよう扉を閉め、息を殺してそちらへと近づいていく。自然と鼓動が速くなった。それを何とか落ち着かせるよう胸に手を当て、彼女は向かい合って並んだベッドの間を通り抜ける。そしてそっとカーテンを持ち上げた。
「乱雲?」
 彼はベッドの上で横になっていた。眠っているのだろうか? 返事はないが、荒い呼吸音が耳まで届いてくる。ありかは困惑気味にシャープを振り返ったが、彼女は力無く首を横に振った。
「お母様が何かしたのかも。たぶん近くにいるから探してくるね」
「え、あ、ちょっと」
「ありかさんはそこにいて!」
 だがシャープはそう言い残すと部屋の外へと出て行ってしまった。取り残されたありかは、仕方なくベッドの側にある椅子に座り込む。そっと乱雲の顔を覗き込むと、苦痛に顔を歪ませたまま固く目を閉じていた。顔色も悪いし、何より気が乱れている。
「乱雲、何があったの?」
 答えは返ってこないだろうが、彼女はそう囁くように問いかけた。そしてそっと、ベッド脇で固く握られている拳に手を添える。それはまるで生きていないように思えるくらい冷たかった。彼女は瞳を細めて、今度は両手で強く包み込む。
「どうして、私を呼んでいたの?」
 かすれかけた彼女の声は、静かな医務室に吸い込まれていった。それでも彼は身じろぎ一つしなかった。

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