ファラールの舞曲

番外編 平穏な戦場で

 平和な午後だった。人通りの多い道から少しはずれに位置する店で、アースは珈琲をすすっていた。そこは古びた作りではあるが小綺麗な内装で、店主も客もいつも静かに時を過ごしている。のどかな空間だ。外側へと張り出した屋根の下には白いテーブルが幾つかあり、そこへ柔らかで心地よい日差しが差し込んでいる。
 彼はそんな店先の一席につき、最近日課となりつつある読書にいそしんでいた。魔物に関する報告書、技使い募集の公告、加えて最近のファラール情勢を伝える知らせに一通り目を通す。そして目新しい情報がないことを確認し嘆息するのが恒例となっていた。
 平穏な午後にすることではなかった。そもそも、ほぼ黒一色にまとめられた恰好で腰から長剣をぶら下げた男が、くつろぐような場所でもない。そのことは彼もよく自覚していた。
 それでも店長を含め誰も何も言わないのは、先日の騒ぎを解決した効果だろう。ある種の『用心棒』扱いだ。彼の仲間であればそのことに憤るかもしれないが、互いの利害が一致した結果であるのだから、気にしてはいない。
 風を、炎を、水を、土を、自在に操ることができるとされる『技使い』という存在は、そうではない人々にとっては『化け物』であり、かつ『救世主』だ。以前はもっぱら厄介者扱いされていたように彼は記憶していたが、最近はやや風向きが変わっていた。おそらく、魔物が姿を見せることが増えてきたせいだろう。何を目的として人に害しているか定かではないが、『技』を使う不気味な生き物の出現を、誰もが恐れていた。
 魔物に対抗できるのは一部の技使いだけ。その『一部』に誰が該当するのか一般人にはわからないため、技使いを等しく丁重にもてなすようになってきた。それを都合よく利用している不届き者もいるらしいが、彼は別段意に介してもいない。本当に魔物と対峙する時に後悔するだけだ。死ぬ直前に気づいても、もう遅いのだが。
「今日も何もなし、か」
 アースは最後の一冊を閉じて、投げやり気味に呟く。何の成果も得られない、退屈な、同時に平和な時間が、今日もこのまま流れるはずだった。しかし、どこかから近づいてくる騒がしい足音を、彼の耳は既に拾っていた。その気配はよく慣れ親しんだものだった。それ故、騒ぎの元凶が向かっているのが自分のいるこの店であることを確信し、彼はもう一度ため息をつく。
 石畳の上で反響した声は、確かに彼の名を呼んでいるようだった。ここまで辿り着くには細い路地を縫うように進まなければならないが、この勢いであればすぐに姿を見せるだろう。初めて訪れる場所でもないから、迷うはずもない。すると彼の予想に違わず、大して間を置かずに「アース!」と名を呼ぶ声が、今度ははっきりと聞こえた。彼はテーブルの上に本をのせると、頬杖をつく。
「いた! アース!」
「うるさいぞ、カイキ」
 細い路地を飛び出して目の前にやってきたのは、仲間の一人であるカイキだった。肩上で切り揃えられた艶やかな黒髪が、焦っているためか今はやや乱れている。アースは顔をしかめつつカイキを見上げた。ずっと同じ姿勢でいたからか、また角度もあったせいか、小さく首が鳴る。
 ほぼ黒ずくめ仲間である二人が揃うと、和やかな空気が一気に重たくなった。いつもなら愛想よく振る舞っているカイキが眉根を寄せているせいで、より険悪な印象が増すのだろうか。
「おいアースっ、ファラールに行くつもりだって聞いたけれど、本当か!?」
 アースが本をのせたテーブルへと、カイキは勢いよく両手をついた。バンという音と共に、白いテーブルが細かく震える。カップを手にしたままだったことを幸いに思いつつ、アースはさらに眉をひそめた。どうやらカイキは怒っているように見える。
「ああ、そうだが」
「本気か!? ファラールっていったら、魔物が絡んでるって言われてる件じゃねえか」
「らしいな」
 この近くで最も賑わっているとされる星――ファラールで、最近不穏な動きがあるとアースは聞いた。そこには魔物が関わっているとの噂だ。星々を渡り歩きながら依頼をこなす『流れの技使い』であれば、誰もが一度は耳にしている話だろう。
「らしいな――って知ってるのかよ!」
 まさかカイキはそれを知らないとでも思っていたのだろうか? アースは首を傾げた。魔物が絡む事件となれば、大きな金が動く。しかも活気がある星であれば、なおのことそうだろう。渦中にあるのはファラールでも指折りの一家となっているファミィール家だそうだ。きっと近々何かが起きる。その前にファラールに入っておくべきだと、アースは考えていた。
「うわぁ始まった。まさかまた試し切り……? おいおいアースちょっと待ってくれよ。そんなんじゃ、いくら命があっても足りねえよ」
 アースがそれ以上何も言わずにいると、カイキは大袈裟に頭を抱えた。ひどい言い様だ。試し切りなどと言われると、さすがのアースも気分が悪くなる。そんな気安いものではなかった。魔物相手に「試す」という意味をカイキはわかっているのだろうか? 一歩間違えたら死が見えるのは皆同じだ。だからこそ、いざという時のためにきっちり得物の力を把握しておかなければならない。
「この間の剣、あの魔物を切り捨てた感触からしても、どうやら本当に優れ物らしいからな。どれだけの力か試すいい機会だろう」
 カイキに向かって、アースはそう断言した。魔物との遭遇頻度は上がっているから、把握するのならば早い方がいい。力が足りないようなら次の得物を探さなければならなかった。すると頭を掻きむしったカイキはうろんげな視線を向けてきた。どこかよどんだ眼差しには恨みさえこもっているように見える。アースが瞳をすがめると、カイキは思い切りため息をついた。
「冗談でも面白くないぞ、それは」
 何故これほどまでに嫌がっているのか? カイキの様子をじっと眺めていると、ようやくアースは一つの可能性に辿り着いた。カイキは先ほど「いくら命があっても足りない」と言った。つまり、巻き込まれると思い込んでいるのだ。確かに、今までの戦闘で何度かカイキは死にかけている。魔物に対抗できるような特殊な武器がなかなか手に入らなかったからだ。
「別に、お前たちも来いとは言ってない」
「……え?」
 だからアースはすぐさまそう付け加えた。その途端、カイキは間の抜けた声を上げた。やはり自分も連れていかれると考えていたらしい。アースは白いカップをテーブルにのせ、腕組みをした。
「ネオンも文句を言っていたからな。われだけでいく」
「ほ、本気か!?」
 しかしそれでも何かが不満なようで、再びカイキは声を張り上げた。アースは無言で大きく頷く。ファラールへ行くことに反対していたのはカイキだけではなかった。もう一人にも、昨日似たような反応をされた。その時は「オレは行かないからな」とわかりやすく断言されたので、「わかった」とすぐさま答えたのだが。
「イレイの武器は破壊されてしまっただろう。そんな状況では連れていくわけにもいかないし、かといって急遽見繕うのも無理な話だ。だから一人で行く」
 魔物に対抗するには武器が必要なのだ。一般的な技では魔物を殺すことはできない。残念ながらアースも、魔物を倒すための技を使うことができなかった。今、仲間内でそういった武器を持っているのはアースとカイキだけだ。それなのに全員強制的に引き連れていくつもりはない。それこそ無謀だった。
「本当に、一人で行く気なのか?」
「異論があるのか? お前は行きたくないんだろう?」
「ない、けど」
 だからアースは一人で行くことを決めたというのに、それでもカイキはまだ何か気にくわないのか? 再びアースはカップを持ち上げて唇を寄せ、過去のやりとりを思い返した。魔物と戦うことに一番過剰反応していたのはカイキだったが、それは何度も死にかけていたせいだろう。まさか置いて行かれるのが心細いなどとは言うまい。そんなことを口にしようものなら、今後一切助けないことをアースは宣言しそうだった。本来は、自分の命は自分で守るものだ。誰かを当てにしていたらいつか足下をすくわれる。
「最近魔物との戦闘続きで武器の買い換えも頻繁だ。金も必要だろう」
「そう、だけど」
「何が不満だ?」
「いや、別に」
「その間は自由にしていてかまわん。だが、これだけは守れよ」
 不安そうなカイキの表情を見ていると、自分の予感が的中していることにアースは気がついた。頭痛がしそうだった。なおのこと、これを機会に突き放した方がいいように思える。アースは呆れた眼差しを一度カイキへと向けてから、手にしたカップを見下ろした。揺れる黒い液面からはもう湯気は立っていない。
「勝手に死ぬなよ」
「……おう」
 力無い返事に脱力しそうになりながらも、アースは残った珈琲を一気に飲み干した。苦みも感じない。カイキの長いため息に、応えてやる気力も残ってはいなかった。『宿題』でも置いていくべきだろうかと考えると、ますます頭が痛かった。

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