ファラールの舞曲

番外編 名もない奇跡(前)

 今日もぼんやりとした天気だった。といっても曇っているわけではない。ただ町全体が靄に包まれたように、鬱蒼とした空気を纏っている。空からは日の光が差し込んでいるはずなのに、それは私たちまでは届かなかった。干した洗濯物だって、なかなか乾いてはくれない。
「ああ、洗濯物」
 それどころか、長時間外に出しっぱなしにしておくと冷たくなってしまう。あの日光を浴びた温かさには、もうしばらく触れていなかった。冷え切った感触だけを、この手のひらは覚えている。
 私は残り数着になってしまった服を、取り込むために庭に出た。この間そのうちの一枚を、ナラリカに奪われてしまった。近所に住む彼女の顔を思い出すと、さらに気分が重くなる。
 何がいけないのだろう。何が彼女を気に障るのだろう。
 考えても仕方のないことに思いを巡らせて、私はため息をついた。どうしようもないことなのだ。今はこの町全体がとにかく貧しくて、みんな切羽詰まっているんだから。
「いけない、こんなこと考えてたら日が暮れちゃう。そろそろお母さんのご飯を準備しなくちゃ」
 私は首を横に振ると、くすんだ色の服を手にして裏口から家の中に入った。お母さんが寝たきりになってから、もうしばらくたつ。一日二回の栄養剤と少しの水しか飲まないのには、いつも胸を痛めていた。一言でもいいから喋ってくれたらいいのに。そうすれば、私だって希望を抱けるのに。
 小さな戸棚を開けると、私はそこにある小箱を取り出した。蓋を開いて中を覗けば、白い錠剤が目に入ってくる。でもそれはもう、残りわずかになっていた。これでは明後日には尽きてしまうだろう。あんなに高かったのにと思うと悲しくなる。
「お金、間に合うかなあ? お父さん張り切ってたけど……無理してそうだし」
 お父さんが危ない仕事に手を出し始めていることを、私は知っていた。隠しているつもりなんだろうけれども、わかってしまった。それは『魔物が雇っている』という噂が流れているものだ。
 お父さんががお母さんのようにならなければいい。最近私はそればかりを願っている。
 お母さんが体調を崩したのは、その仕事に就き始めてからしばらく経ってからのことだった。元々そんなに体が強くない人だから、仕事のせいだとは断言できない。でもこの状態はあまりにも不自然で、やはり魔物の仕業じゃあないかと私は疑っていた。
「きっとそうよ、絶対そう」
 箱を戸棚に戻して、私は小さくつぶやく。俯けば二つに結んだ髪が揺れて、頬の横をかすめた。栄養不足で痛んだ髪は、ナラリカたちに汚いと罵られる原因の一つだ。ばっさり切ってしまえばいいのに、これを梳くお母さんの手付きを思い出すと、私にはとてもできなかった。切ってしまえば、もう二度と目覚めない気がして。
 馬鹿馬鹿しい思いこみであることはわかっている。でも縋るものがない私には、必要な暗示だった。このままひとりぼっちになるのは嫌だ。私は戸棚に背を向けると、台所へと向かう。
 その時、扉をノックする音が聞こえた。聞き間違いかと思ったが、それは一回では終わらなかった。まさかこの家の戸を叩く人がいるなんて、信じられない。物取りが何か企んでいるのだろうか? それともナラリカたちの悪戯だろうか?
 私はおそるおそる、扉へと近づいた。そして息を呑みながらゆっくりとそれを押し開ける。
「ああ、いたのか。よかった」
 体を強ばらせた私の前にいたのは、一人の女性だった。黒く長い髪を一本に結わえて、少し変わった上着を羽織っている。黒い瞳は柔らかく細められて、その口元には笑みがあった。
 私はそこに立ちつくしたまま、彼女を凝視した。とにかく綺麗な人だった。私よりは少し年上といったくらいだろうか? たぶん二十歳は超えていないだろう。でもこんな人がこの家を尋ねてくるなんて、信じられなかった。
「ここがメイナーさんの家か?」
「は、はい、ここは確かにメイナーですけれど……本当にここに用があるんですか?」
 失礼だとは思いつつも、私はもう一度確かめた。この家に人が来るなんて、一体何年ぶりのことだろう? 記憶から掘り起こすのも億劫な程に、来客などなかった。数少ない見覚えのある親戚も、何年か前に亡くなっている。
 それなのに信じがたいことに、彼女は笑顔のままうなずいた。本当にここに用があるらしい。こんなことならもっと綺麗にしておけばよかったと、私は密かに後悔した。今家の中はひどい状態だ。
「エリジーさんに会いに来たんだ」
「母に、ですか?」
「そうだ、エリジーさんの様子を見て欲しいと頼まれてな」
 彼女の言葉に、私は眼を見開いた。まさかお母さんがああなった原因を探し出してくれるのだろうか? 治してくれるのだろうか? 突然湧き上がった期待に、体全体が震える。誰がそんなことを頼んだのかなんて、聞く余裕もなかった。その場に崩れ落ちないようにするだけで、精一杯だ。
「迷惑か? そうだな、こんな得体の知れない奴を入れるなんて危険だからな」
「い、いえ、そんなことありません! 母をどうぞよろしくお願いします」
 彼女は医者なのだろうか。そう疑問に思いつつも、私は勢いよく頭を下げた。この機会を逃してはいけない、そんな気がする。お父さんがなかなか戻らず、栄養剤が残り少なくなった今、頼れるものなら何でも縋りたかった。きっと母の遠い親戚なのだろうと、そう思いこむことにする。
「そうか、ありがとう」
 変な言葉遣いだなと、思いつつも私は何も言わなかった。視線を上げれば、彼女の穏やかな笑顔がすぐそこにあった。
 私はすぐに、お母さんのいる部屋へと彼女を通すことにした。誰も入れるなと一応お父さんには言われていたけれど、今さら守る意味はないように思える。だって栄養剤がなくなれば、もうお母さんを支える物は何もなくなるのだ。新しい栄養剤を買うだけのお金は、手元にはない。
 つまり、刻々とお母さんは死へと近づいている。その道のりを歩いている。今まであえて考えないようにしていた事実に、私はようやく目を向けることができた。それも彼女のおかげだ。希望ができたからこそ、重い現実を直視することができる。
「その、お名前をうかがってもいいですか?」
「名前? ああ、名前か。できれば名乗りたくないんだが……そうだな、シィラってことにしておいてくれ。本名は少し有名な人に似ていて、色々騒ぎになるんだ」
「はあ」
 思い切って名前を聞いてみれば、返ってきたのは不思議な答えだった。有名な人といっても、貧乏な私には情報を得るだけのお金がない。だからそれが誰のことを指すのか、よくわからなかった。ただ彼女が変わり者であることだけは、何となく感じ取れる。
「そこに眠っているのが母です」
 奥の扉を開けると、私は彼女を先に通した。もうどうにでもなれという気持ちと、彼女が治してくれますようにという希望が、胸中で入り交じる。彼女の視線が古びたベッドへ向けられるのを、私は黙って見つめた。
「やはり、そうか」
 お母さんを見て、最初に一言彼女はそう発した。何がやはりなのか理解できず、私は首を傾げる。見ただけでわかるのだろうか? すると彼女はゆっくりベッドへ近寄った。
「あの、シィラさん……」
 私の小さな呼びかけに、彼女は答えるそぶりもない。ベッドの脇に立つと、彼女は手のひらをお母さんの上へと掲げた。
 何かする気だ。私が慌ててその傍へ寄ると、黒い双眸が向けられた。何をどう言っていいのか戸惑った私は、とりあえず一番聞きたかったことを口にする。
「あの、その、母は治るんですか?」
 全てが水の泡となるかもしれない質問。期待と不安が詰め込まれた疑問。私はそれを彼女へとぶつけた。もう限界に達していたのかもしれない。お母さんが目を覚ますと信じて看病することに、疲れていたのかもしれない。私はとにかく答えが欲しかった。
「ああ。ただしエリジーさんは病気じゃない」
 彼女はうなずいた。その途端、どっと私を疲労感が襲った。知らない間に緊張していたらしく、強く握っていた手のひらには汗がにじんでいる。喉から変な声が漏れそうになるのを堪え、私は震える唇を噛んだ。自分の体が自分のものでないかのようだ。
「どういう、ことなんですか?」
「エリジーさんはな、今精神が足りないんだ」
「精神?」
 聞き返せば、彼女は静かに首を縦に振った。神妙な眼差しを向けられて、私は数度瞳を瞬かせる。精神と聞いて浮かぶのは、せいぜい心のことくらい。だからそれが足りないと言われても意味がわからなかった。彼女の言葉が本当なら、お母さんの意識がないのはそのためなんだろうか?
「技使いって知っているか?」
「わ、技使いですか? はい、聞いたことはあります。不思議な力を使う能力者のことだと」
「まあ間違ってはいないかな。技使いが技を使う時、必要とするものが精神だ。ただそれは技使いだけでなく、普通の人間も持っている。それを使えるか使えないかという違いがあるだけなんだ」
「そうなんですか」
 突然飛び出してきた技使いという単語。この小さな星ゲーダァには、技使いなどほとんどいない。時々流れの技使いがやってきた、という噂を耳にするくらいだった。それなのに何故、彼女は突然そんなことを言い出したのか。しかも普通の人間にも、その精神はあるだなんて。
「精神には、必要最低限の量というものがある。それを下回ると、人は普通の生活もできなくなるんだ。意識を保てなくなる。これは技使いもそうでない人間も同じなんだけどな。わかるか?」
「……はい、何となく」
 彼女はゆっくりと説明を続けた。そこまで言われると、何となく私も言わんとすることが飲み込めた。いや、予感できたと言うべきなのか。私は固唾を呑んで、汗ばんだ手のひらをスカートへと擦りつける。彼女は一度視線をお母さんへと移して、瞳を細めた。
「精神の減り具合によっては、意識を保てないどころか場合によって息さえできなくなる」
「では母は、精神が足りないために目覚めないんですか?」
 彼女の横顔に、私は率直な疑問をぶつけた。耐えることができなくなっている私は、とにかく早く答えが欲しかった。こちらへと双眸を向けて、彼女は少し寂しそうに微笑む。
「そう。精神が足りないために意識が戻らないんだ。ただ栄養状態はそんなに悪くないみたいだから、精神の量さえ回復すればすぐに目覚めると思うけどな」
 うなずく彼女に、私はようやく安堵の息を吐くことができた。あの高かった栄養剤は、無意味ではなかったのだ。ちゃんとお母さんの命を繋ぎ止めていたのだ。自分たちの行いが正しかったと証明されて、背中の重荷が軽くなる。錠剤を飲ませるのに苦労して、諦めようとしたこともあった。
 けれどもどうして彼女は、こんな話に詳しいのか。そう考えていくと、私の想像はあるところまで行き着いた。もしそうだとすれば、一目見ただけでお母さんの状態がわかったのも、納得できる。まさかこんな所にと思うけれども、それ以外の可能性は考えられなかった。
 私は意識して息を吸い込むと、怖じ気つく心を叱咤して、真正面から彼女を見つめる。
「もしかして、あなたは――」
「ん?」
「技使い、なんですか?」
 問いかけに、彼女は不思議な微笑みを浮かべて首を縦に振った。それは心温まるようでどこか切ない、秋を思わせる笑顔だった。

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