ファラールの舞曲

第十五話 「終曲の調べ」

 短剣を受け取った次の日には、屋敷内は騒然とし始めた。事件が解決間近だというのは本当なのだろうと、そう思わせる緊張感が漂っている。護衛たちは慌ただしく廊下を行き交い、そこに時折難しい顔をしたギャロッドやシェルダが混じっていた。
 ゼジッテリカはそんな光景をしばらく眺めていたが、しかし結局は飽きて退屈してしまった。いや、むしろ誰もかまってくれない現状に、得体の知れない不安すら覚える。だから彼女はシィラと共に、自分の部屋へと戻ってきた。
 いつもなら姿を見かければやってくるマラーヤでさえ、声をかけてくることもないのだ。それは自分の存在を無視されたかのようで、どうも心許ない。主の定かでないざわめきも、胸の奥底に重たい鉛を落としていった。
 ベッドに腰掛けたゼジッテリカは、足をぶらぶらとさせながら窓の外を見た。そろそろ日が沈み始める頃だろうか? 外は薄暗くなりかけ、時折うなる風の音が聞こえていた。空にかかった薄雲も、早足で過ぎ去る人々のように窓の外へと流れている。
 全ての現象が、不安の象徴のごとく感じられた。事件が解決するというのは嬉しいが、そのためには必ず戦闘が起こるのだろう。それもかなり大規模なものに違いない。屋敷内の緊迫した空気が、それを物語っていた。
「動き出しました」
 すると突然、傍にある椅子に腰掛けていたシィラが立ち上がった。その声はひどく落ち着いていて、それがかえってゼジッテリカの心を波立たせる。ベッドから飛び降りると、ゼジッテリカはシィラの横へと近寄った。そしてその服の裾をぎゅっと掴むと、顔を覗き込む。震えそうになる唇は、かろうじて言葉を紡いだ。
「な、何が動き出したの?」
「彼らの本陣です」
「彼ら……って、魔物?」
「ええ、そうです。怯えたまま隠れているのに耐えられなくなったんですね。総攻撃でも仕掛けてくる気でしょう」
 シィラの眼差しは、窓の外へと向けられていた。その横顔は驚く程冷静で、動揺するゼジッテリカとは正反対な様子だ。ゼジッテリカは息を呑みながら、その視線を追った。けれどもそこには先ほどと変わったところは見受けられない。流れる薄雲があるだけで、何かが空に浮かんでいるというわけでもなかった。
「彼らが本気になれば、この部屋まではあっという間です。でもここでは戦いにくいですから、先に出ておきましょう。リカ様」
「えっ? い、いいの!?」
 だがそこで放たれたのは予想外の言葉で。ゼジッテリカは目を見開くと、再度シィラの顔を見上げた。そこでようやくゼジッテリカへと視線を向けて、シィラは薄く微笑みかけてくる。いつもの穏やかで優しい眼差しに、ゼジッテリカは少しほっとした。
 ついでシィラの手が伸びてきて、所在なげなゼジッテリカの手を掴んだ。ゼジッテリカの手のひらは汗ばんでいたが、シィラの手は乾いている。その細い指先がそっと、ゼジッテリカの手の甲を撫でた。
「ええ、テキア様はわかってくださいますよ。大丈夫です。リカ様には私が、そしてその剣があるのですから」
 言われて腰から下げた短剣を、ゼジッテリカは見下ろした。普通の剣がどのくらいの重さなのかはよく知らないが、これはゼジッテリカでも軽いと思えるくらいの物だ。
 だから太めのベルトからぶら下げても動きづらいということはなく、歩く妨げにはならなかった。ただ黄色のドレスには似つかわしくないから、自分で見ても違和感はあるが。
「では行きますね」
 すると答える間もなく、ゼジッテリカは抱え上げられた。前にも一度抱き上げられたことはあるが、やはりいまだにその事実には驚いてしまう。シィラの細い腕は見た目以上に力があるようだ。不安定なところもなく支えられて、ゼジッテリカは瞬きを繰り返した。
「大丈夫ですか? リカ様」
「う、うん」
「では窓から飛び降りますから。驚かないでくださいね」
 シィラはそのまま窓際へと寄り、その鍵を開けた。大きな窓が開け放たれると、そこからやや強い風が部屋の中へと入り込んできた。温かい屋敷の空気とは違う、冷たい風だ。なびく髪を抑えながら、ゼジッテリカは目を細めた。
 すると突然体にかかる重力が消え、目の前に空が広がった。それは瞬きをする間すら惜しむような、一瞬の出来事だった。何が起こったのかわからず目を回し、ゼジッテリカは慌てふためく。
「わわっ!?」
「大丈夫ですよ、リカ様」
 シィラに抱えられたまま、ゼジッテリカの体は空に浮かんでいる。いや、上昇していると言ってもいいかもしれなかった。今まで体験したことのない感覚が心許なくて、ゼジッテリカはシィラにしがみつく。シィラの髪が頬へと触れた。少しくすぐったかったが、それでもしがみつく腕の力を抜くことはできなかった。
 ついでシィラの笑い声が鼓膜を震わせ、むずがゆさにゼジッテリカは身をよじった。だがこんな風に笑われれば普通は不快になるだろうに、何故かそうは感じなかった。むしろそれは安堵の理由にすらなり、ゼジッテリカはいつの間にか閉じていた目を怖々と開く。
「中庭に下りますからね」
 そう言われて、ゼジッテリカは固い動きで首を縦に振った。しかしその動きも数回繰り返されたところで、唐突に止まってしまった。屋敷の向こう側、薄暗い空に赤い光が見えたのだ。それは夕日の輝きではあり得ない。自然のものとは異なる光が、灰色の雲の中で瞬いていた。
「始まりましたね」
 シィラの声に、今度はうなずくことができなかった。ゼジッテリカは指先に力を込め、震える唇を強く噛んだ。



 黒い煙がくすぶる中、アースはひたすら剣を振るっていた。とにかく敵の数が多かった。今までどこに隠れていたのかと疑問に思う程、魔物たちは突然集団でやってきたのだ。
 今屋敷の前は色とりどりの魔物たちで埋め尽くされていると、そう表現しても過言ではないだろう。だがやはり救世主のことを恐れているのか、いきなり屋敷の中へと突っ込んでくることはなかった。それだけが救いだろうか。それとも単に真綿で首を絞められているだけだろうか。
「何なのよ、この数は!」
 背後からは、マラーヤの悲鳴じみた叫びが聞こえてきた。魔物一人いたところで、普通の技使いには恐怖なのだ。それなのにこれだけの数ともなれば、戦意を喪失してもおかしくはない。つまり、そうならないだけ彼女は優秀というところか。アースは剣の柄を強く握った。
「とにかく目の前の奴を倒せっ」
 声を張り上げながら、迫ってきた黒い獣を彼は切り捨てた。耳障りな断末魔の悲鳴が響き渡り、鮮血がその頬を濡らす。剣の血をふるい落として、彼は瞳をすがめた。
 切れ味の衰えないこの剣があるからまだましだが、これを何度繰り返せばいいのか。さすがの彼も嫌気が差してきていた。正気の沙汰ではやってられない。魔物を倒すためには、ただ剣で切ればいいだけではないのだ。そのためには自らの精神も必要とする。けれどもその量は、かなり限られていた。
 刹那、地を揺るがす轟音が響き渡った。膝をついたアースは、焦げ臭い煙の中辺りを見回す。
 炎系の光弾でも落ちたのだろうか? 右手から上がった炎が、強い風の中灯火のように揺れていた。その下では魔物のものとおぼしき、水色の髪が地面へと広がっている。かすかに聞こえるうめき声から、死にかけていることは明らかだった。
「仲間割れか……?」
 アースは顔をしかめた。今のタイミングは地上で放たれた攻撃ではない、上から降り注いできたものだ。だが上空に普通の技使いがいるわけがなかったし、それらしい気も感じなかった。とはいえ、まさかそんな馬鹿なミスを犯す魔物がいるとは思えないのだが。
「妙だな」
 迫り来る水色の光弾を、左手で張った結界が空へと弾き返した。いつもなら相手に向かって飛ばしてやるところだが、どこに仲間がいるかわからない現状ではそれも難しい。アースは舌打ちする剣を横薙ぎにした。それは左手へ突き進もうとしていた光の帯を、一刀両断する。
「油断するなっ」
「す、すみません。戦況はどうなってますか?」
 光が突き進もうとしていた先、そこにいたのはシェルダだった。金髪をはためかせた彼は、左手で負傷した護衛を一人支えている。それは小柄な青年で、一見しただけではまだ子どものようにも思えた。
 アースは彼らを一瞥すると、細く息を吐き出した。屋敷内の護衛まで出ざるを得ない現状という時点で、シェルダにも戦況などわかっているだろう。それを確認したところで何も変わらないのだ。それなのにわざわざ問いかけてくるシェルダに、苛立ちさえ沸き起こってくる。
「見ての通りだ。とにかく数が多すぎる」
「そう、ですね」
「ギャロッドは?」
「屋敷の門の前で戦ってます。仕方なくバン殿まで出てきたようです」
「は? あいつもか!?」
 会話を交わしながらも、アースは鳥の姿を模した魔物を切り払っていた。一体どれだけの魔物を倒したのかも、もうよく覚えてはいない。これだけの数を一度に相手したのは、彼も初めてのことだった。接近戦を得意とする彼にとって、こうした混戦はあまり得意ではないのだ。
 別の仕事を引き受けている仲間たちがいればと、彼はほんの少し後悔した。無理にでも連れてくればよかったのだ。こちらの方が報酬はいいのだから、義理立てなどせず適当に片をつけてくればいいだけの話だったのに。それなのに説得を諦めた彼は浅はかだった。
「テキア様なら屋敷の中ですから、おそらく大丈夫だとは思いますよ」
「馬鹿を言え。我々が守るのはこの屋敷ではなくファミィール家の人間だろう? 直接護衛が離れるなんて信じられん」
「そう僕に言われても……テキア様がいいと仰ったことですし、あの光靱のバンには口出しできませんから。それに屋敷内にも護衛は残っていますし」
 シェルダは言い訳をしながら、支えていた護衛の顔を覗き込んだ。今にも崩れ落ちそうなその護衛は顔色が悪く、腹部は真っ赤に染まっている。このまま戦場にいれば、確実に失血死するだろう。そう思わせる傷だった。腰から下げた防具も赤く染まっているし、口から漏れる息も荒い。
「そいつはもう放り出せ、シェルダ」
 低く構えながら、アースはそう言い放った。途端、爆音の中でもシェルダの息を呑む気配が伝わってくる。飛んできた白い光の帯を切り裂いて、アースは彼を一瞥した。シェルダの顔は強ばっていた。
「そいつにかまっていたらお前も死ぬぞ」
「それは、わかっていますが」
「だったら今すぐ技でも使え。お前は広範囲の技も得意だろう? この状況で一対一の戦いを繰り返しても、時間ばかり食うだけだ。そのうちこちらが崩れる」
 背後から放たれた水の矢を、またアースは剣でたたき落とした。正直話しながらの戦いというのは疲れるから嫌いなのだ。余裕がある時ならまだいいが、今はそういう状況でもない。ただそれでも、屋敷前まで辿り着く魔物がわずかなのは不思議だったが。
 バンとギャロッドがいるからだろうか? いや、いくら二人でもこの数では限界があるはずだ。だいたい普通の護衛はあまり役に立っていないどころか、アースにとっては邪魔でしかない。それを考えると、この戦況は妙だった。それは前回の戦闘を思い起こさせるもので、彼は眉根を寄せる。
「救世主は、出てこないんでしょうかね」
 シェルダの生み出した結界が、降り落ちてきた黒い光弾を弾き返した。ようやく真面目に戦う気になったようだ。だがその足下にはまだ負傷した護衛が横たわっていた。それを一瞥してアースは嘆息する。生温い男だ。
 けれども救世主がいればと思う心は、わからないわけでもなかった。魔物を一瞬で葬り去るその実力は、計り知れないものがある。いや、そういったレベルではないだろう。なにせ魔物たちがその存在に怯え、動揺するくらいなのだから。
 魔物たちの攻撃が乱れているのは、救世主が密かに参戦しているからなのだろうか?
 それもアースにはわからなかった。ただ今はとにかく魔物の数を減らしていくしかない。彼にできるのはただ、目の間にいる相手を葬っていくことだけだ。だから無駄な思考は邪魔なだけだった。それは混戦の中では命取りになりかねない。前回現れたあの藍色の髪の男も、まだ姿を見せていないのだから。
「なんでこう、次から次へと出てくるのよー!」
 マラーヤのよく通る声が、戦場の中で響き渡った。アースは苦笑を浮かべながら、再度横へと剣を振るった。

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