ファラールの舞曲

第十二話 「救世主」 (後)

 ゼジッテリカは今日もまた、小さなロビーのソファでくつろいでいた。それは廊下傍のちょっとしたスペースを利用したものだが、最近彼女はここが気に入っている。
 今までは自分の部屋と食堂、あとは浴室くらいしか行くところがなかったので、あらゆる場所が新鮮なのだ。しかも最近は何故か他の護衛も、ゼジッテリカが外に出ていても嫌な顔をすることが少ない。
「最近叔父様来ないねー」
 そうなだけに陽気な声を出して、ゼジッテリカはジュースを飲んだ。朝食の後におまけにもらった物だ。名前は知らないが酸味の効いた果物のようで、すっきりとした味わいがある。その薄い山吹色の液面を覗き込みながら、ゼジッテリカはストローを回した。氷の立てる音が綺麗で、小さい頃からの癖なのだ。
「そうですね、忙しいみたいですよ」
 ゼジッテリカの隣には、いつも通りシィラがいた。柔らかい笑顔を浮かべた彼女は、実はゼジッテリカが寂しがっていないことをきちんと理解してくれている。
 以前ならば、テキアが来なければつまらない日が続いていた。けれども今はシィラがいる。しかもこうやって外に出ても嫌な視線を浴びることもないので、出歩くのも楽しかった。ずっと住んでいる屋敷なのに知らない部屋ばかりで、不思議な気持ちにはなるが。
「あ、ゼジッテリカ様にシィラ。またこんなところにいる」
 するとしばらくもしないうちに、背後から聞き慣れた声がかかった。ゼジッテリカは振り返る。声の主はマラーヤだった。今日はリリディアムと一緒ではないらしく、彼女の隣には誰もいない。そのことを確認して安堵し、ゼジッテリカは笑顔を浮かべた。そして目の前の低いテーブルに、手にしていたコップを載せる。
「おはよう!」
「マランさん、おはようございます」
「おはよう。しかし二人とも暢気ねー、こんなところでお喋りなんて。あ、それとも例の噂、とうとう聞いたの?」
 近づいてきたマラーヤは、よく見ると疲れた顔色をしていた。もしかしたら夜の警備だったのかもしれない。屋敷外担当は屋敷内よりも気が張りつめるらしく、大変だという話は聞いていた。
 だがそれにしても彼女の表情は明るかった。だいたい、例の噂とは何だろう? どちらもさっぱりわからなくて、ゼジッテリカは首を傾げた。するとシィラも同じように、頭を傾けているのが目の端に映る。
「例の噂、ですか?」
「あれ、もしかしてまだ知らないの? 今護衛たちの中では、謎の救世主のことで持ちきりなのよ」
「救世主? 私それ聞いたことないよー」
 マラーヤはそう告げると、まるで自分が褒められているかのように胸を張った。けれどもゼジッテリカとシィラには初耳だ。二人が顔を見合わせていると、マラーヤの呆れた苦笑が聞こえてきた。情報が遅い、ということだろうか。
 確かにそういった話は今まで、テキアかシェルダが折を見て持ってきてくれていた。が、最近はそれがほとんどないのだ。やはり忙しいのだろう。廊下を出歩いていても、その姿を見かけることは滅多にない。
「もしかして、それで皆さん何となく活気づいているんですか?」
「あ、わかる? そうなのよー。正体はわからないけれど、何となくこっちへ運が流れてきてるって感じがするじゃない。殺される人もほとんど出なくなったし」
「へーそうなんだ。でもテキア叔父様は何も言ってくれないよ?」
「それは……不確かな情報でぬか喜びさせたくないからじゃない? 後でゼジッテリカ様ががっかりしたら、テキア様困りそうだし」
 二人の質問に、マラーヤは次々と答えていった。では最近護衛たちから嫌な目線を向けられないのも、その噂のおかげなのだろうか? だとしたらゼジッテリカにも嬉しいことだった。まだ魔物との戦いが終わったわけではないが、重苦しい雰囲気に押しつぶされそうになるよりはずっといい。ゼジッテリカはさらに笑みを深めた。
「なるほど。ですがこれだけ空気が変われば、何かあったくらいは伝わってしまうと思うのですが」
「それはまあねー。だけどあたしもようやく仕事がやりやすくなったわ。慣れてきたってのもあるかもしれないけど」
「お仕事と言えばマランさん、今は?」
「休憩時間。夜の担当でようやく解放されたんだけど、何だか眠れなくてさ。だからぶらぶらしてたのよ」
 マラーヤはまた苦笑を浮かべると、凝り固まった体をほぐすように首を回した。外の護衛となると基本は立ったままらしい。時折見回りもするようだが、何か起こるまではそう派手な動きはないようだった。
 油断はできないが動けないというのも辛いのだろう。それが夜ともなれば、どんなものなのかゼジッテリカには想像もできなかった。しかし相当苦痛だろうということだけは理解できる。
「んー?」
 そこでやおら、マラーヤが振り返った。横を見れば同じようにシィラもそちらを見ていて、ゼジッテリカは不思議に思って瞳を瞬かせた。ソファの背もたれが邪魔で、ゼジッテリカからは二人が見る先のことはわからない。
 だがしばらくもしないうちに、その理由がわかった。声が聞こえたからだ。二人の男女の声が、廊下の奥からこちらへと響いてきている。一方は淡々とした低い声で、もう一方は甘ったるい声だった。それが誰のものなのかと考えた瞬間には、ゼジッテリカの顔は曇っていた。あまり鉢合わせにはなりたくない二人だ。
「ですからー」
「もう、いいだろう。邪魔だ」
「あ、おはよう。第二部隊の隊長さん」
 話しながらやってきたのは、リリディアムとアースだった。その姿を確認すると、ますますゼジッテリカの表情は険しくなる。できるだけ普通でいようとしても、苦手なものは苦手なのだ。思わずシィラの上着を握ると頭を撫でられ、ゼジッテリカはうなずいた。こんな顔をするのがいけないことだとはわかっている。それでもシィラのように笑顔ではいられない。
 一方、マラーヤは二人に対して気軽に声をかけていた。リリディアムはそんな彼女を見て片眉を跳ね上げたが、アースはというと無言で肩をすくめただけ。嫌がっているかどうかも、判断しにくい反応だった。それでもマラーヤは意に介していないらしく、からっとした笑顔を浮かべ続けている。
「先ほどまで一緒だっただろう、マラーヤ」
「あーそれもそっか。さっき報告したばかりだもんね。ってリリー、あんたまだアースにつきまとってるの? ちゃんと仕事しなさいよ」
 思い返せばマラーヤはアースを嫌っていたはずだが、今彼女にはそんな様子はなかった。またアースも彼女の言葉を無視しないところをみると、どうやら不快には思っていないようだった。
 いつの間に打ち解けたのだろうか? ゼジッテリカは二人を交互に見た。いや、そうしながらできるだけリリディアムを見ないようにしていた。一瞬だけ見えたその瞳が、怒りの色をたたえていたのだ。
「失礼ですわね! 仕事中よ! アース様からの話を他の方に伝えるのも、私の仕事なの」
「はいはい」
 声を張り上げるリリディアムを、結局ゼジッテリカはまともに見てしまった。だが思っていたよりも恐怖を感じなかった。ソファがその間にあるからだろうか、それともソファの背後にいるマラーヤが壁代わりになっているからだろうか。どちらにせよその事実に安堵し、ゼジッテリカは小さく息をこぼした。するとシィラの手が頭からゆっくりと離れる。
「もう、適当すぎる返事ね」
 リリディアムはそう愚痴りながら、その右手をアースの腕へと伸ばそうとした。しかしそれを察知したアースは、嫌そうなそぶりでその手から逃れた。いっそ清々しいくらいの対応だった。それにはさすがにリリディアムも傷ついたらしく、口元が引きつっている。
 アースは彼女が苦手らしい。それが少し意外で、ゼジッテリカはまじまじと彼を見た。無愛想を顔に貼り付けたような彼だが、よく見ればその表情には小さな変化がある。リリディアムから離れようとする時は、嫌そうに目を細めていた。べたべたされるのが嫌いなのだろうか?
 そんな彼の双眸が、一瞬だけゼジッテリカへと向けられた。いや、向けられたように思ったが、視線は合わなかった。つまり彼が見たのはシィラだ。
 そう思って隣を見ると、シィラはいつもの微笑を浮かべているだけだった。見られたことには気づいてそうだが、何とも思っていないらしい。シィラらしいと言えばシィラらしいが、リリディアムに睨まれても動じないのはさすがだ。
「いつもお前たちはこんなところで無駄な時間を過ごしてるのか」
「ちょっと、いつもじゃあないわよ。今日はたまたま。ゼジッテリカ様たちが救世主のこと知らないって言うから」
「救世主? ああ、あの謎の女のことか」
「女? って女なの!?」
 そこで話は一変した。アースとマラーヤ、二人の口から救世主のことが飛び出して、ゼジッテリカは固唾を呑んだ。先ほどは気になっていても詳しいことが聞けなかったが、この話の流れだともしかしたらそれが出てくるかもしれない。
「馬の尾のような髪が、一度だけ目撃されているらしい。昨晩助けられた奴の話だ。まあだからといって女とは言い切れないんだがな。だが他の奴らはそう言っている」
「へーそれは知らなかったわあ。やっぱり部隊長の情報量は違うのねえ」
 アースの説明に、マラーヤは感心しながら相槌を打った。ゼジッテリカも同じように首を振り、その姿を頭に思い描こうとする。けれどもそれだけでは情報不足で、想像もできなかった。ただ助けられたということからして、その救世主は屋敷外の護衛を守っているようだ。殺される者が減っているのも、そのおかげなのだろうか?
「知らないあなたが駄目なだけよ。私も知ってるわ、それくらい」
「はいはい、あんたは黙っててねリリー」
 そこで口を挟んだリリディアムを、マラーヤは半眼で一瞥した。本当にマラーヤはリリディアムを怒らせるのがうまい。
 ただその付き合いも長いせいか、リリディアムも半分は諦めているらしかった。目をつり上がらせながらもそれ以上は何も言わず、肩を怒らせている。もっともその長い鳶色の髪はかすかに震えているから、感情は押し殺しきれていないようだ。
「それじゃあな。マラーヤ、お前もさっさと寝ろよ」
「はーい、ご忠告ありがとうございまーす」
 そこで話に一旦区切りがついたと判断したのか、アースはそう言うと歩き出した。去り際ゼジッテリカに一礼していくところなどは、見た目の印象よりはずっと律儀だ。
 彼の背中を見送っていると、その後をリリディアムが追いかけていった。どんなにつれなくされても、めげないところはすごい。ゼジッテリカは妙なところに感心しながら、足をぶらぶらとさせた。三人だけになって、急に空気が軽くなった気がする。
「ずいぶん仲良くなりましたね」
 するとそのタイミングを待っていたかのように、シィラがマラーヤを見上げた。背もたれに頬杖をついたマラーヤは、言われている意味がわからないのか目を丸くする。しかしすぐに心当たりを見つけたのか、その口角が上がった。
「あー、アースのことね。余計なこと言わなければ付き合いやすい奴だったわ、案外。変に気を遣わなくていいし」
「そうですか」
「うん、そうそう。じゃあその部隊長さんの忠告通り、あたしもそろそろ寝ようかなあ。リリーをからかってすっきりしたしっ」
 マラーヤは伸びをすると、ぱたぱたと右手を振った。両手を振り替えしたゼジッテリカは、マラーヤがアースたちとは逆の方へ歩いていくのを目で追う。言葉通り気分が高揚したのか、その足取りは軽かった。彼女が眠れればいいとゼジッテリカは願う。眠れない日が辛いのは、ゼジッテリカも知っていた。
「すごいね、救世主だって」
 マラーヤの姿が見えなくなると、ゼジッテリカは意気揚々とシィラを見上げた。そしてテーブルに置いたコップを手に取ると、そのストローを口に含む。冷え切ってはいないが生温くもなっていない。その爽やかな味が口内に広がり、乾いていた喉が潤った。シィラはそんなゼジッテリカを見下ろして、頬を緩ませる。
「ええ、そうですね」
「ね、どんな人なんだろうねえ。想像してみようと思ったけれど無理だったよ。でもきっと綺麗な人だよ!」
 ゼジッテリカは両手でコップを抱えた。馬の尻尾のような長い髪。誰も正体を知らない、夜こっそりと護衛を助けていく者。それが女なのか男なのかもわからない。これを聞いて高揚せずにいられる者なんているだろうか? ゼジッテリカは瞳を細めた。
「どうしてです?」
「だってその方が楽しいしさ。それに本の中のことみたいだよ」
「リカ様って、実はそういう話好きですよね」
 自分では必死に語っているつもりなのだが、シィラはくつくつと笑い声を漏らした。馬鹿にしているわけではないのだろうが、何だか子どもだとはっきり言われているみたいな気がしてくる。それが何故だか嫌で、ゼジッテリカは軽く頬を膨らませた。
 けれどもよく考えてみれば、本は結構好きだった。ずっと部屋にいることが多かっただけに、同じ年頃の少女よりはよく読んでいると思う。ゼジッテリカはもう一度シィラを見上げた。
「もーシィラったらさー。でも救世主はね、きっと神様だよ。私たちが困ってるから、力を貸してくれてるのっ」
 半分やけになりながら、ゼジッテリカはそう言い切った。そんな都合のいい神様がいるとはさすがに思えないが、しかしそう思いたくなるくらい嬉しい話だったのだ。するとシィラの顔が不意に穏やかになり、その頭がわずかに傾けられた。緩く束ねた黒髪が揺れて、彼女の膝の上を滑っていく。
「ええ、そうですね。きっと来てくれたんですよ、リカ様を助けに」
 そう告げるシィラの微笑こそ神秘の話そのもので。ゼジッテリカは息を呑むと、小さく首を縦に振った。噂の救世主が何者でもかまわないと、そう思える表情だった。今目の前にいる人が、既にゼジッテリカにとっては救世主だったから。
 コップの氷が溶けて崩れ、硝子に触れて音を立てた。その音がやけに強く、ゼジッテリカの耳に残った。

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