ファラールの舞曲

第十話 「ほどけない鎖を」 (前)

 食堂から戻ってきたゼジッテリカは、しばらく部屋の中でくつろいでいた。その手には母からの贈り物である、彼女そっくりの人形がしっかりと抱かれている。
 何か嫌なことがあった時、不安なことがある時、言いたいことが言えない時。いつの間にかそれをいじる癖がついてしまっていた。それが今も直らないでいるゼジッテリカは、人形の髪を撫でながらベッドに腰掛けた。ぽふりと柔らかい音がして、ゼジッテリカの体が軽く沈む。
 彼女のすぐ傍にはシィラがいて、窓の外を黙って見つめていた。そんな様子をこっそりとうかがいながら、ゼジッテリカは口を開きかけては閉じ、を繰り返した。
 シィラはテキアのことが嫌いなのだろうか?
 そう率直に聞けなくて、ゼジッテリカは悶々としていた。あの時シィラの顔を見ておけばよかったと、今さらになって後悔する。こうやってずっと気にかけるなら、勇気を出して確かめておけばよかったのだ。その方がずっとすっきりしていたはずだし、今さら尋ねるのかと考え込まなくてもすむ。
 また自分は聞きたいことが聞けないのか。そう思うと、ゼジッテリカの気分はどうしようもなく沈んだ。そしてあの時あっさりと疑問を口にしたバンを、あらためてすごいと感じた。あんな変な恰好をしているのは酔狂ではないのだろう。おそらくどう思われていても平気なのだ。それだけ、自分に自信があるから。
 では自分はどうして聞けないのかと、ゼジッテリカは自ら胸中で問いかけてみた。それはたぶん、相手に困った顔をされるのが嫌だからだ。困らせるのが嫌だから。いや、嫌われるのが嫌だから。だから簡単なことでも尋ねられないのだ。
「でもシィラはそんなことじゃあ、私のこと嫌いにならないよね」
 けれどもゼジッテリカには、そんな確信があった。確信できるまでに至った。だからかすかに首を横に振ると、自分にだけ聞こえるようにそう小さくつぶやいた。シィラはそんなことくらいで誰かを嫌いになる人間ではない。そんな人間は、こんな風に優しくしてくれない。そう思うと徐々に心は落ち着いてきた。ゼジッテリカは、シィラのことは信頼している。
 しかしさすがにこの静かな部屋では、小さなつぶやきも感づかれたらしい。シィラの不思議そうな視線に、ゼジッテリカはただ笑顔だけを返した。人形を手にしてるから、内容さえ聞かれていなければ大丈夫なはずだ。人形遊びの一環だと思ってくれるだろう。現に、シィラはそれ以上問いかけてはこなかった。
 嫌われないって信じられるなら、聞いてみればいい。そうゼジッテリカは心中で繰り返した。聞いてしまえばすっきりする。たとえ希望が打ち砕かれたとしても、こうやって悶々としなくてもすむ。ゼジッテリカは人形を力強く抱きかかえると、黙ってシィラを見上げた。すると窓の外を見つめていた眼差しが、またゼジッテリカへと向けられる。
「どうかしましたか? リカ様」
「あ、あのね。シィラ。シィラはテキア叔父様と結婚はしてくれないの?」
 言った、言ってしまった。そう思いながらもゼジッテリカは真っ直ぐシィラを見上げた。シィラは一瞬驚いたように目を丸くすると、それから微苦笑を浮かべて頬へと指を当てる。長い前髪がさらりと揺れて、わずかに見えていた耳を覆い隠した。
「それは、先ほどの話のことですか? そうですねえ……ちょっと難しいですね」
「な、何で?」
「この前、目的があるって言いましたでしょう? そのためにはここに止まっているわけにはいかないんです」
 シィラはそう告げると、申し訳なさそうに瞳を細めた。ゼジッテリカはそっかとだけ答えて、さらに強く人形を抱きしめる。予想はしていたが、やはり駄目だった。シィラがいつしかこの屋敷を出ていく日を思い描くと、胸の奥がつんとした。仕方ないことだとは思うけれど、それでも湧き上がる寂しさは拭いきれない。
 以前の自分を想像すると、正直ぞっとした。あの頃は平気だったはずなのに、もうそんな生活には耐えられない気がした。心が弱くなったのか、それとも幸せな時間を知ってしまったためなのか。どちらにせよ、ゼジッテリカには困ったことだが。
「すみません、リカ様」
「ううん、シィラが家族になってくれたらいいなあって、そう思っただけだから。でもシィラにはシィラの事情があるもんね。それに叔父様のも」
 ゼジッテリカは自らに言い聞かせるようそう言って、大きく首を横に振った。そして冗談だと話して笑ったテキアの顔を、頭の中で思い描いた。あの時彼はどんな気持ちだったのだろうか? ゼジッテリカを傷つけまいとしてくれたのだろうか? それとも困惑するシィラに気を遣っていたのだろうか?
 考えてみてもわらからなかった。ゼジッテリカは誰のこともよく知らないのだ。シィラだけではなくテキアも。また亡くなった父や母のことも、実はよくは知らない。母の顔など、朧気にしか覚えていなかった。
「ねえシィラ」
 その事実が無性に悲しくて、ゼジッテリカはそう囁くようにつぶやいた。すると突然声音が変わったせいだろう、シィラが怪訝そうにゼジッテリカを見下ろしてきた。けれども泣きそうになったゼジッテリカはまともにシィラを見られなくて、ベッドの上を睨みつけるようにして言葉を続ける。視界の隅では、シィラの眉根が寄っていた。
「私ね、実はお母様のことあんまり覚えてないんだ。優しかったこととか大切だったことは覚えてるけど、どんな顔してたかとか、どんな風に笑ってたとか。ぼんやりとしか覚えてないの」
 告げながらも、ゼジッテリカは一生懸命母の顔を思い出そうとした。けれどもやはりそれはぼんやりとした輪郭しか描けなくて。曇った硝子の向こうのようで、あまりに不確かだった。それ故せいぜい彼女と同じ金髪だったことしかわからない。瞳の色すら、曖昧だった。おそらく同じだったとは思うが。
「リカ様は小さかったのですから仕方ないですよ」
「ううん、お父様のこともそうなの。お母様が亡くなってからお父様忙しくなって、ますます遊んでくれなくなって、話もできなくなって。だから私、お父様がどんな風に仕事してたとか、どんな風に笑ってたのかもよく思い出せないの。ただ病気になって眠ってる姿くらいしか、覚えてないの」
 こんな突然の自白に、きっとシィラは驚いてるだろう。でも自覚したむなしさを、ゼジッテリカは胸の内に溜め込むことができなかった。思わず目尻に涙が浮かぶ。今まではきっと、あえてそこから目を逸らしていたのだ。だから気がつかなくてすんでいたのだ。それなのに今は、もう見過ごせなくなってしまっている。
「リカ様」
 そっと伸びてきたシィラの手が、ゼジッテリカの頬に触れた。その温かさに涙がこぼれて、慌ててゼジッテリカは首を横に振る。泣いている顔など見られたくない。これ以上シィラに、心配をかけたくはない。なのに止まりそうもない涙を、心底ゼジッテリカは恨めしく思った。こんな風に弱い自分は嫌いだ。
「思い出せないのならそのままでもいいんですよ。大切だったって、その記憶はちゃんと残ってるんですから」
 慰めてくるシィラの声は優しかった。それがさらに涙腺を刺激して、ゼジッテリカは嗚咽を漏らす。シィラはそんなゼジッテリカを抱きしめて、そっと頭を撫でてくれた。ゼジッテリカも人形を抱きしめる。
「だって、忘れられてたら、お母様もお父様も悲しいでしょう? 寂しいでしょう?」
 震える唇は、不安定な声しか紡げなかった。そう続けてゼジッテリカは、シィラへと頭をあずけた。たった一人の娘に顔を忘れられるなんて、きっと二人は悲しんでいるだろう。そう思うと胸が痛かった。奥底に溜め込んであった何かが破裂しそうで、喉の奥まで震えてくる。
「そんなことないですよ」
「嘘っ!」
「そんな心配しなくても、大丈夫ですよ」
「ど、どうしてそう言い切れるの?」
「実は私も、大切な人に忘れられてるんです」
 だがそこで思いもかけない告白をされて、今度はゼジッテリカが驚いた。絶句したまま慌てて顔を上げると、柔らかに微笑んだシィラの眼差しとぶつかる。ゼジッテリカは瞳を瞬かせて、小首を傾げた。そしておそるおそる口を開いた。
「シ、シィラが?」
「はい。とても大切な人が、私のことを忘れてしまっているんです」
「か、悲しくないの?」
「仕方のないことなんですよ。でもその人が幸せなら、私はそれでいいんです。だって私の気持ちは変わりませんし。それに、ふとした時に私の何かを思い起こしてくれるなら、それだけで十分なんです」
 その時初めて、シィラの笑顔が切ないと思った。だから涙で濡れた顔を手でこすって、ゼジッテリカは精一杯微笑みかけようとした。励ましたいと、慰めたいと思った。それはたぶん、初めての気持ちだ。今まで誰に対しても抱いたことのない、純粋な感情。自分もこんな気持ちを抱けるのだと、ゼジッテリカは初めて知った。
「すいません、ひどい顔になっちゃいましたね、リカ様。それじゃあもういい時間ですし、そろそろお風呂に行きましょうか?」
 するとそれまでの儚い微笑が嘘のように、シィラは悪戯っぽく笑った。そしてゼジッテリカの肩を叩いた。確かに、ひどい顔をしているという自覚はある。このままだと大変だろう。もし心配したテキアがやってきたら、どうとも言い訳ができない。それを考えるとさっさと入浴してしまった方が良さそうだった。シィラの言う通りだ。
「あ!」
 しかし歩き出そうとするシィラの背中を見て、ゼジッテリカはふと良い案を思いついた。シィラは唐突に上がった声に、驚いたように振り返ってくる。ゼジッテリカは頬の涙を拭うと、今までにないくらいの満面の笑みを浮かべた。
「今日はシィラも一緒に入ろう?」
「……え?」
「だって私一人じゃ寂しいよ。ね、だから一緒に入って? お願いっ!」
「で、ですがそれではリカ様をお守りできないんですが」
 困惑するシィラの背中を強引に押しながら、ゼジッテリカはそのまま部屋の扉を開けた。ゼジッテリカが相手だと、シィラもどうやらそれを振り払えないようだった。無理矢理引き返そうとはしない。
 直接護衛が戦えない状態になることが、危険だというのはゼジッテリカにもわかる。だが今は少しも離れたくなかった。慰めたいのか慰めてもらいたいのかよくわからないが、とにかくずっと一緒にいたいのだ。これだけは譲れない。
「あっ……」
 刹那、慌てたようなシィラの声が上がって、ゼジッテリカは背中を押す手を止めた。よく見ればシィラの足の前には、誰か別の人の足があった。それも二人分だ。どちらにも見覚えがある。
 何だか嫌な予感がしてきて、ゼジッテリカはおそるおそるシィラの後ろから顔を出した。そこには案の定、テキアとバンの姿があった。たぶんゼジッテリカの様子を見に来たのだろう。あの時バンが妙なことばかり言っていたから、気にしているのではと心配したのだ。
「どうかしたのですか? そんなに急いで」
 シィラとぶつかりそうになったテキアは、彼女の肩を押し戻しながら首を傾げた。しかしひどい顔を見られたくないゼジッテリカは、シィラの後ろから出ることができなかった。仕方ないのでその腰にしがみつきながら、声だけで答える。
「シィラと一緒にお風呂に入るの!」
「……とリカ様が仰ってるんです」
 ゼジッテリカの返答に、すかさずシィラはそう付け加えた。するとテキアが苦笑する声が聞こえてきた。たぶん仕方のない子どもとでも思っているのだろう。けれども今はどう思われてもいい。それよりも大切なことがある。そう考えられるだけに、今のゼジッテリカは以前にはない程強気だった。それに優しいテキア相手なら負ける気がしない。
「絶対一緒に入るの!」
「ど、どうしましょう? テキア様」
 言い張るゼジッテリカに、シィラは困り果てたような声を発した。小首を傾げたのだろう、その長い髪が揺れてゼジッテリカの頭をかすめていく。今度はバンからも苦笑が漏れ聞こえてきた。少しからかうような笑い方だ。
「仕方ありませんね。まあ、たまにはいいでしょう。マラーヤ殿が屋敷外の方に回されてしまったので、実を言えばどうしようかと思っていたところなのです」
「で、ですが――」
「屋敷の中ならそれなりに安全ですしね。ただ長湯だけは避けてください」
 テキアの柔軟な返答に、ゼジッテリカは飛び上がって喜びたかった。ただ彼らに顔を見られては困るから、こっそり拳を握るだけに止めておく。それでも不思議な期待に、心臓は十分に高鳴った。誰かと一緒のお風呂だなんて、どれくらいぶりだろうか。
「じゃあ行こう、シィラ!」
「す、すいませんテキア様。本当にすいませんっ」
 テキアとバンが廊下の端に避けたのをいいことに、ゼジッテリカはぐいぐいとシィラの背中を押した。これでもうひどい顔を見られずにすむだろう。そう思うと安堵の息が漏れた。心底申し訳なさそうな様子のシィラには、ちょっとだけ悪いとは思うのだけれど。
「本当にゼジッテリカ様にはお優しいですな、テキア殿は」
 後ろからはそんな、バンの声が響いてきた。しかし強気になったゼジッテリカは、そんな嫌味など全く気にしなかった。

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