ファラールの舞曲

第九話 「許されざる感情」 (前)

 行く先々で遠慮がちな視線を受けて、ゼジッテリカはため息をつきたかった。せっかく久しぶりにシィラが部屋の外へ連れ出してくれたのだ。それなのに廊下でもどこでもうかがうような眼差しばかりを向けられては、浮き立っていた気持ちも段々としぼんでしまう。
 だがそれも、仕方のないことだとも思えた。犠牲者は、その後も減らなかったのだ。
 一人目の男が殺されたその翌々朝、別の見張りの男が殺されているのが発見された。詳細は聞かないが無惨な殺され方だったという。そしてその数日後にもまた、別の護衛の死体が屋敷の外で見つかった。それまでと同様に技によるもので、また目撃者がいないことも共通していた。
 魔物の仕業か。それともどこかに別の犯人がいるのか。
 誰もが心の中ではそう思っていて、しかし口には出せないでいた。そんな状況なのだから、屋敷全体が異様な雰囲気に包まれている。ぎすぎすとしながらも皆、護衛を続けているのだ。
 そこをゼジッテリカが通りかかれば訝しく思うに違いないだろう。いや、あからさまに不快感を示した者もいたから、連れ出したシィラを疎ましく思っている人もいるのかもしれない。
「ねえシィラ」
 無言の圧力に耐えきれず、ゼジッテリカはシィラの手を取った。シィラはちらりと視線を向けてきて、何かと問いかけるように小首を傾げてくる。
「何だかみんな顔が強ばってるよ」
 さすがにぎすぎすしてるとまでは、ゼジッテリカは言えなかった。それでも言外にそう告げれば、辺りへと視線をやったシィラが微苦笑を向けてくる。幸い話が聞かれる距離に人の気配はなかった。だからとりあえずは安心だ。
「そうですねえ、皆それぞれ周りを疑ってるんですよ。そして次は自分の番じゃないかって怯えてるんです」
「え? それって……」
「ええ、あちらさんの思う壺、ってところですよね」
 思っていたことを肯定されて、ゼジッテリカは顔を曇らせた。それはつまりいい状況ではないということだ。このままで大丈夫なのだろうか? いつか魔物がこの屋敷へ侵入してくるのではないか? そう考えると背筋が凍る思いだった。これから何が起こるのか全く予想ができない。
 ただ傍にはシィラがいるから、自分が死ぬとは思えなかった。しかしそれでもテキアや他の護衛たちが殺される可能性はある。それはゼジッテリカにとっては十分、怖いことだった。
「あ、あれはマランさんにリリディアムさんですね」
 しばらく沈んだ気持ちのまま足元を見ていると、不意にシィラがそう囁いた。それにつられて少しだけ顔を上げれば、丁度曲がり角をこちらへ折れてくる女性たちが見える。確かにそれは見覚えのある二人、マラーヤとリリディアムだった。
「ゼジッテリカ様にシィラ!」
 するとあちらも気がついたのだろう、すぐにマラーヤがそう声を上げて走り寄ってきた。彼女が身につけた簡易防具が触れ合い、その音が軽快に廊下に響く。一方リリディアムの方は一瞬だけ顔をしかめて、それから繕った笑みを浮かべて近づいてきた。ゼジッテリカはシィラの手を強く握る。
「こんばんは、マランさんにリリディアムさん」
「またあんたたちはこんな風に歩き回って。お散歩?」
「そんなところですね」
 からかうように尋ねてきたマラーヤに、シィラはおっとりとした調子で答えて笑った。繋いだ手のことは気にしていないらしい。そのことに安堵しつつも、ゼジッテリカはできるだけリリディアムを見ないようにしていた。敵意剥き出しの人は苦手だ。もっとも敵意を隠しながら近づいてくる人はもっと苦手なのだが。
「またまた暢気ねえ」
「部屋に閉じこもっていては気が滅入ってしまいます。それはあちらさんの望むところですから」
「あんたねー」
「もうよしなさいよ、マラン。この方には何を言っても無駄ですわ」
 なお言葉を続けようとしたマラーヤに、リリディアムがそう割って入った。髪を掻き上げた彼女は、曰くありげな眼差しをシィラへと向ける。だがシィラはそれに対して予想通りに、にっこり微笑みかけただけで何も言わなかった。これではリリディアムもどうしようもないだろう。ゼジッテリカはちょっといい気分になる。
「リリー、あんたいい加減にしなさいよね。いつまでシィラにつっかかってる気なのよ。ゼジッテリカ様の前なのに」
「何のことです? 私はただ事実を指摘しただけですわ」
「あー全く子どもなんだから」
「それはマランの方でしょう! って、あ……」
 するとそこで不意に、リリディアムが言葉を途切れさせた。怪訝に思って彼女の方を見上げてみれば、その視線はゼジッテリカたちのずっと後方へと向けられている。
 何かあるのだろうか? そう思ってゼジッテリカが振り返るのと、シィラが振り返るのはほぼ同時だった。自然と離れた手で自分の服を握ると、廊下の奥に黒ずくめの男が立っているのが見える。
「アー……スさん、ですね」
 ぽつりと、シィラがつぶやいた。そう言われてゼジッテリカも、ようやくそれが誰だったかを思い出した。確か屋敷外の護衛をやっている男だ。その眼孔が鋭かったことが、強く印象に残っている。
 廊下の奥で立ち止まったアースは、彼女たちの方を見て一瞬だけ何かを躊躇した。しかしその後は何事もなかったかのように、真っ直ぐと近づいてくる。単にどこかへ向かって歩いているといった足取りではない。彼は確実に、ゼジッテリカたちの方を目指していた。
 近づくにつれてその鋭い眼差しがはっきり視界に入り、ゼジッテリカは思わずシィラの足にしがみついた。まるで威嚇されているような気分だ。
「お前がマラーヤか」
 声が聞こえる程度の距離で、彼は立ち止まった。そして遠慮のない視線をマラーヤへと向ける。彼が目指していたのは彼女だったらしい。マラーヤは体を強ばらせると、小さく首を縦に振った。
「そ、そうよ」
「明日からこちらの第二部隊に入るんだったな?」
「あーそういうことになってるわね。人手不足って怖いわぁ。副隊長引っ張り出すんだから」
 淡々と尋ねてくるアースに、マラーヤは肩をすくめてそう答えた。若干緊張しているのか顔は強ばっているが、それでも萎縮するつもりはないようだ。ゼジッテリカはシィラの服の裾を掴みながら、その様を見守った。傍にいるとアースはさらに迫力がある。これなら魔物とでも対等に張り合えるのではと思うくらいだ。
「それくらい屋敷の外が危険ということだ」
「わ、わかってるわよ、それくらい。で、あたしの顔確認しにきただけなの? 他に用はないわけ?」
「特にない。たまたま見かけたから様子を確認しただけだ。この間こちらへ配属されてきた奴は、怖じ気ついて使い物にならなかったからな。だがお前なら大丈夫そうだ」
 アースは右の口角だけ上げると、一方的にそう言い放った。そしてむっとしたマラーヤは無視して、軽くゼジッテリカに向かってだけ一礼する。特別な言葉はなかった。彼はすぐに顔を上げると、そのまま彼女たちの横を通り過ぎていった。
 いや、通り過ぎようとして振り返り、それでも何も言わずにまた歩き出した。額に巻かれた赤い布が場違いな程優雅に揺れる。それを見送りながら、彼女たちはただ言葉を失って立ちつくしていた。彼の単調な足音が廊下に響く。
「な、何なのよあいつは! あんな威圧感丸出しでさー」
 しばらく間をおいてから、ようやく我に返ったマラーヤがそう怒声を上げた。緊張の糸がほどけたらしい。がっくりと壁にもたれかかった彼女は、あーあとつぶやいて額を抑えた。
 その気持ちがゼジッテリカにはわかるだけに、今すぐマラーヤに駆け寄りたい気分だった。あんな男に話しかけられたら心が縮んでしまう。よくマラーヤは平気だったと、心底尊敬したかった。
「そんなに怖かったですか?」
「……ああ、シィラみたいにのほほんとしてたら感じないのかもしれないわね。でもあいつの前だとたいていの護衛は萎縮しちゃうのよ。怖じ気づいたのだってさ、絶対あいつがいたせいよ」
 そう漏らしたマラーヤは、その後もぶつぶつと愚痴を続けた。やれ何故第二部隊なのだとかあたしなのかとか、そんな文句だ。ゼジッテリカはそんなマラーヤをぼんやり眺めていたが、ふと視界の端に映ったリリディアムの様子がおかしいことに気づいた。彼女は鳶色の瞳を瞬かせながら、じっとアースが去った方を見つめ続けている。
「まあまあマランさん」
「シィラにあたしの気持ちがわかる? これからあいつの下で働くのよ? 考えるだけで胃が痛くなりそう。ねーリリー、あんたならわかってくれるわよね?」
「……羨ましいですわ」
「は?」
 共感を求めてリリディアムへと尋ねたマラーヤは、予想外の返答に間の抜けた声を上げた。目を丸くしたマラーヤは、リリディアムの頭からつま先までを舐めるように見つめる。それでもリリディアムの双眸は、廊下の先へと向けられたままだった。
「あんなかっこいい方と一緒だなんて、羨ましいですわ。がさつなマランのくせに」
「え、ええっ!? あ、あんた正気なの!?」
「失礼ですわね、マランの目は節穴じゃなくて? アース様のどこがそんなに恐ろしいのよ」
「はあ? 全部よ全部。目つきも態度も全部危険じゃないのよ」
 振り返ったリリディアムの瞳には、剣呑な光が宿っていた。それにつられるようにマラーヤの視線も険しくなり、その場に一触即発の空気が流れ出す。
 ゼジッテリカはおろおろしながら、その行方を見守った。こんな時頼りになるのはシィラだ。が、今回は止める気がないらしい。彼女は穏やかな微笑を浮かべたまま静観していた。大丈夫、ということだろうか?
「まさかリリー、あんたあいつに惚れたの? 止めなさいよあんな危険な奴。だいたい仕事中でしょ」
「小心者ね、マランは。彼はそんなに怖い方ではありませんわ。この間も私荷物運びを手伝っていただきましたし」
 手を組んだリリディアムは、その時のことを思い出すかのようにうっとりと目を細めた。その横顔を見て青ざめたマラーヤは、信じがたいといった様子で体を震わせている。しかし何か思い出したのだろうか、皮肉そうに口の端を持ち上げると今度はシィラを一瞥してきた。
「なるほど、あいつも所詮は男だったってことね。そう言えばこの間はシィラのこと見てたし、美人は別格なのかもねえ」
 その発言は、リリディアムの心を抉ったらしい。あからさまに顔を赤黒くしてまなじりをつり上げ、リリディアムはシィラを睨んだ。慌てたのはシィラだ。普段は落ち着いている彼女も、こういう話題は苦手なようだった。怒りの矛先を向けられて、彼女はぱたぱたと手を振る。
「いえ、私は単に疑われていただけだと思いますけど。荷物運びも手伝ってもらってませんし、リリディアムさんの場合とは違いますよ」
「え? あ、そう、そうよねー。アース様があなたみたいな年下に惹かれるなんてことは、考えにくいわよねえ」
 この場を収めることを最優先にしたのだろうか、シィラは首を横に振るとそうリリディアムを持ち上げた。すると少しは気をよくしたのか、リリディアムは微笑してウェーブした髪を右手で掻き上げる。
 自慢の髪なのだろう。技使いで長い髪を持つ人は少ないと、以前ゼジッテリカは聞いたことがあった。戦闘の時に邪魔だからだ。だから髪が長い者というのはある意味特殊な人たちなのだ。よく考えればシィラも長いし、あの怪しいバンも何故か伸ばしていた。つまり、そういう人たちくらいなのだ。もしくは髪をどうしても切れない程思い入れがある場合か。
「はいはい、リリーは黙ってなさいって」
「あのマランさん、そういえば先ほどのことですけれど」
「え?」
 そこで話の流れを変えようとしたのだろう、シィラはマラーヤへと向き直ってそう声をかけた。マラーヤはその『先ほど』に心当たりがないのか、不思議そうに瞳を瞬かせる。
「マランさんは屋敷外の担当に移ったんですか?」
「あーその話ね。そうそう、そうなのよ。ほら、夜の見張りが何人か殺されてるでしょう? それで怯えた数人が勝手に逃げ出しちゃったのよね。で、人数不足になって、屋敷内の方から回されたってわけ」
 確認するシィラに、苦笑しながらマラーヤはそう説明した。それは深刻な現状を伝えていて、ゼジッテリカは深く息を吸い込む。恐怖に耐えきれない者が出てきたと、そう告げているのだ。寄せ集めの護衛ではやはり統率力がないのだろう。魔物を相手にする恐怖と得体が知れない闇からの恐怖に、狼狽える者が出てきたのだ。
 つまり、これからが本番だということだ。おそらくこれはまだ序章に過ぎない。ファミィール家の行く末は、全てこれからにかかっていた。
「そうなんですか」
「だからシィラ、あんたはこんな所ほっつき歩いてないでちゃんとゼジッテリカ様を守ってよね。しっかりしてもらわなくちゃ」
「……はい、そうですね」
 沈んだ返事とともに、シィラの目線はゼジッテリカへと注がれた。ゼジッテリカはその黒い瞳に向かって、不安を押し殺すように微笑みかける。それはシィラの真似だった。きっといつも笑っていれば強くなれるのだ。シィラのように。
「リカ様……」
 瞳を細めるシィラに、ゼジッテリカはうなずいた。シィラがいるから大丈夫だと、心の中で何度もそう繰り返した。

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