ことわりのはかりかた(柊さん) 【ウィスタリア】


 小さな足音が朝を連れてきた。
 木々のざわめきが薄暗い石畳に浮かび、すぐに差し込む光がその影をかき消す。束の間の輝きは、朝が通り過ぎるとすぐになりを潜めた。窓は大きく桟は細いが、見通しが良く明るいだけの、疲れて古びた回廊だ。
 ゆっくり、おそるおそる歩いてたクロミオは、そこだけ磨き抜かれた大きな扉の前で足を止めた。胸元にバスケットを抱えたまま大きく息を吸い込み、ぎゅっと目を瞑る。
「姫様おはようございます! 今日はメイプルだよ、とってもおいしそうだよ!」
 ノックの思い切りは良かったが、滑らかでも冷たく硬質な扉はぺちんと鳴るだけでびくともしない。クロミオは手の向きを変えてノックを繰り返し、それから握った手と扉を見比べた。
「もしかして、まだ寝てるのかな」
「あら、今日はクロミオが届けてくれたのね」
 くぐもった声は少し遠い、廊下の奥の方から返ってきた。かすかな靴音に軋む車輪の転がる音が続き、その向かいの壁に妙に四角いシルエットが浮かび上がった。
 クロミオは迷いもせず駆け出し、堰を切るように口を開きかけ、そのまま立ち尽くしてしまった。
 扉に手を掛けたルネテーラは、いつものドレスの上から少し大きな白衣を羽織っていた。丁寧にロールアップした袖から覗く小さな手が、頭に被っていた布を取り、無造作に髪をまとめて胸元に流している。頬は少し上気していて、目元はもっと赤くて腫れぼったい。
「……姫様、誰か呼んできた方が良い? それとも、一人にしてほしい?」
 口を噤んだままのルネテーラがクロミオの真剣な面持ちをじっと見つめ、その視線を追うように頬や目元に手を当てる。
 ふわりとこみ上げた欠伸を、ルネテーラはそっと顔をそらしてやり過ごした。丁度その時、クロミオのお腹が盛大な音を立てる。
 二人はどちらもそのまま顔を赤らめ、続けて小さく吹いてしまった。
「大丈夫よ、クロミオ。これは気付いたらもう朝だったってだけ。それにウルナを呼ばれるのは困るわ、まだ少し早いもの」
 ルネテーラは目元を拭いながらクロミオの手を取り、いたずらっぽく目配せしながら部屋の中へ招き入れた。


「足下に気をつけてね。簡単に壊れたりはしないけど、ぶつけるとすごく痛いから」
 部屋に入ったところにつるりとしたアイボリーの、肩にかけるベルトの付いたプラスチックの箱が鎮座していた。高さはクロミオの膝ほど、蓋には立派な留め金が付いているが、妙に座り心地が良さそうな安定感がある。
 箱にぼんやりと映ったクロミオが、その表面を撫でた光を追った。
 いくつか置かれた木箱と、壁紙も貼られていない剥き出しの石材を行き来する、七色に揺れる光。それは部屋の中央に向かい合わせに並べられた、細長いテーブルの上からこぼれている。
 ルネテーラは肘まであるレース編みの手袋をはめると、テーブルに置かれたシンプルなスタンドからトレイを外し、その上にシルクのハンカチを広げた。
「少し片付けるから、バスケットはもうちょっと持っていてね」
 ちらりと振り返りながら両手で掬い上げたのは、銀と赤の輝石で象られたトンボのアクセサリだった。胴や尻尾こそいくつか石が欠けているが、七宝で彩られた翅は軽く撓ませながら硬く冷たい光沢を保っている。
 そっと、だが次々とトレイに乗せられてゆく細工は、どれも片方の手のひらにすっぽり収まるほどに小さなものだった。黒真珠で編まれたチョウに、金枝のオリーブを運ぶつがいの白鳩、濡れた葉の上で頬を膨らませる瑪瑙の雨蛙。どれも目を離している間は堂々と寛いでいそうな、妙にのんびりとした雰囲気をまとっている。
 最初のトレイが一杯になると、今度は別のトレイに長方形のインゴットを拾い上げてゆく。それはどれも指先くらいの大きさに鋳造されていて、疵一つ曇り一つ無い。刻印は木の葉や人の横顔、果ては幻獣の類まで多岐に渡っていて、どれも精緻この上ないのに同じモチーフは二つとない。
 そこまで終えると後は手袋を外して、小振りなハンマーやペンチや、小皿やピンセットや、スプーンやへらといったものをまとめて終わりだった。丁寧だが気楽な様子で細長い薄金の箱に収めて蓋を閉じる。
 その間ずっと、クロミオはテーブルに置かれた、長いステアに小さなカップが乗ったカクテルグラスを食い入るように見つめていた。
 カップは紫紺と菫と薄紅の、小さな花びらほどの欠片たちで満たされている。そのどれも尖っていながら瑞々しく、冷たく透いて朝日を煌めかせ、まるで夜明けを映す漣のように瞬いている。
「……姫様。これ、姫様が作ったの?」
 クロミオはやっとそれだけ呟くと、そのまま息を止めてうっとり眺め、それからようやく深く息を吐いた。
 ルネテーラはクロミオから受け取ったバスケットを抱えたまま、何かの握りが突き立ったボウルを奥に押し、細かな目盛りの入ったカップを重ねてスペースを確保する。
 バスケットからパンが並べられた深皿とポットを取り出し終えると、膝に手をおいたクロミオがルネテーラをじっと見上げていた。
「これ、ボクも作れるようになりたい。お手伝いしちゃだめ?」
 琺瑯のポットを傾けながら、ルネテーラは何度か瞬いた。
「手順は簡単だし、クロミオが覚えてくれるなら私も助かるわ。でもなかなか材料が揃わないし、作業は単調で面白くないわよ? たぶんお使いもたくさんしてもらわないといけないし」
 クロミオはわずかに身じろぎするだけで、決して目を逸らさない。
 ルネテーラは途中で口を閉ざし、結局小さく笑って肩をすくめた。
「分かったわ。だったらまず朝食を片づけて、それから作戦会議をしなきゃね」
 ルネテーラは小さい積み木のようなパンを摘み上げると、クロミオも思い出したようにお腹を押さえてからはにかみ、パンを小さく折り取って口に放り込んだ。


 蓋を取ると、キツネ色の焼き目が現れた。
 軽く刺した串には何も残らず、フライパンを軽く揺するだけで下に構えた真白いプレートへするりと収まる。乗せたバターはすぐに滴となって伝い、そのまま跡だけ残して消える。
「これがそのときのパンケーキ、なんだ?」
 ゼイツは差し出された皿を受け取り、素直に喉を鳴らした。
 濡れ布巾にフライパンを置いたウルナが、メイプルシロップの小瓶を手渡しながら困ったように笑う。
「そうよ、ちょうどゼイツが教会に来たころのこと。私に出されたのは、もっと薄くて硬くてぱりぱりしていたけれど」
 大胆にカットしたパンケーキを、ゼイツはもう口一杯に頬張っていた。小瓶を受け取りながらも、しっとりふかふかに焼き上がった黄金の生地をフォークでつついていて、決して目を離そうとしない。
「これだけの材料、ウルナだから集められたんだろ? でも姫様にパンケーキを焼かせるなんて、良く許したね」
 フライパンに向き直っていたウルナは、泡がぷつぷつと出始めた生地を鮮やかに裏返し、蓋をしてから砂時計をひっくり返す。それからやっとため息を吐いて、ゼイツを振り向いた。
「私がラディアスに相談されたときは、せいぜいポットにお湯があれば十分って話だったの。必要なものもゼラチンと砂糖くらい、なのにいつの間にかクーラーボックスには氷がぎっしり詰まっているし、聞けばガラスの器でお湯を沸かしたり、余った材料で焼き菓子を作ってたとか。……本当にね、あの時は心臓が止まるかと思ったわ」
 ティーコゼにくるまっていたポットを取り上げ、二つのカップに紅茶を注ぐ。立ち上る香りは柑橘の華やかさ、なのにウルナの目は徐々に据わっていく。
 ゆっくりと目を瞬かせたゼイツは、部屋の天井をじっと睨んだまま首を傾げた。
「ということは…… つまり黒幕はラディアスでもなくて?」
「監督不行き届きは認めたのだけれど。遺産から器具を見つけたのも、レシピを探して訳したのも、材料と燃料を手配したのも、全部姫様なのよ」
 透明な炎に蓋を被せて外し、火が消えたことを確認する。ウルナは焼き上がったパンケーキと紅茶を持って、ゼイツの正面に腰を下ろした。
「それはまた…… 思い切ったことをしたな」
「そうなの。カトラリーレストに教会伝来の重宝を使った上に、天秤の重りに使うからってプラチナインゴットは封まで剥がしてしまったでしょう? アルコールランプの燃料に年代物のスコッチを丸々一瓶使い切ってしまうし。……思い付いても怖くて出来ないことって、意外と身近にもあるのね」
 ウルナは頬杖を突きながらしみじみと頷いていたが、急に黙り込んでしまった。
 ゼイツの眼差しは暖かく柔らかいのに、唇が軽く吊りあがっている。
 紅茶に手を伸ばしたゼイツを、少し頬を膨らませたウルナがちらりと睨んだ。
「大変だったのよ?」
「だって、そういうウルナを見るのが目的だったみたいだからね。……ラディアスまで本気で怒ったのは予想外だって、姫様は言ってたけど」
 ゼイツは香りの余韻を楽しんでいたが、ウルナは動きと一緒に息を止めると、ぎこちなく俯き、そっと口元に手を当てた。
「えっと、ウルナ?」
「……私、いま子供みたいに拗ねていたわ」
 絞り出すように呟いたウルナは、少し震えてさえいた。豊かな黒髪から覗く首筋や耳はいつの間にか真っ赤に火照って、透けるような白さは見る影もない。
「そんなことない、楽しそうだったよ。ちゃんと怒って笑って、呆れて照れて。大丈夫、ウルナは幸せそうだよ」
 何でもないように頷き返そうとしながら、ゼイツこそカップを持ったまま固まっていて、どうにか窓の方に顔を向けたところだった。
 ウルナは小さくなったままだったけれど。それでも確かに、小さく笑って返した。

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